春の陽ざしが差し込む窓辺で、真理はオーブンの前にしゃがみこんでいた。
タイマーの針が残り三分を指している。
ふわりと甘い香りが部屋いっぱいに広がり、胸の奥までとろけそうだった。
チョコブラウニー——それは彼女にとって、ただの焼き菓子ではなかった。
高校生のころ、真理はよく母と台所に立った。
母は忙しい看護師で、平日は帰りが遅かったが、休日になると決まってブラウニーを焼いた。
「ほら、焦げないように角を見て。そこが大事なの」
そう言って笑う母の横顔を、真理は今でも覚えている。
焼きあがったブラウニーを二人で切り分け、まだ温かいまま口に入れると、外はさっくり、中はしっとり、そしてほのかにビター。
母の疲れも笑顔に変わる魔法みたいだった。
けれど、その笑顔は長く続かなかった。
真理が大学に入る前の年、母は病であっけなく逝ってしまった。
残されたレシピノートの最後のページに、母の文字があった。
「いつか、あなたの焼くブラウニーを食べてみたい」
それを見たとき、真理は泣きながらオーブンを抱きしめた。
それから何年も経ち、社会人になった今も、真理は休日ごとにブラウニーを焼く。
母の味を再現しようと何度も試したが、どこか違う。
香りも、食感も、記憶の中のあの温もりに届かない。
ある日、会社の同僚・蓮が言った。
「真理さんの差し入れ、すごくおいしいです。売ってるやつみたい」
少し照れくさくて、「そんなことないですよ」と笑いながらも、心の奥が少しだけ温かくなった。
蓮はお菓子に詳しく、週末に近くのカフェ巡りをするのが趣味だという。
彼はある日、ふと思いついたように言った。
「今度、一緒にブラウニーを食べ比べに行きませんか?」
カフェのテーブルには、三種類のブラウニーが並んでいた。
ナッツ入り、ビターチョコ、そして塩キャラメル風味。
真理はフォークを手に取り、ゆっくりと口に運んだ。
「どれも美味しいけど……やっぱり、家で焼いたほうが好きかも」
「その味、教えてくださいよ」
蓮の言葉に、真理は笑った。
母のように、誰かに味を伝える日が来るなんて思ってもみなかった。
翌週末、蓮を自宅に招いた。
小さなキッチンに二人で立つ。
チョコを刻む音、バターが溶ける香り、混ぜるたびに広がる甘い空気。
「角が焦げないように見るんですよ」
思わず口をついて出たその言葉に、自分でも驚いた。
母が言っていたのと同じ台詞だった。
「なるほど。ここが“真理ブラウニー”の秘訣ですね」
蓮が笑う。
その笑顔に、いつの間にか母の面影が重なった。
焼き上がったブラウニーを切り分けると、部屋に柔らかなチョコの香りが満ちた。
ひと口食べて、真理はふと気づく。
——ああ、これだ。
外はほろりと崩れ、中はしっとり。
甘さの奥にほんの少しの苦味。
母が焼いてくれた、あの味にようやく近づけた気がした。
窓の外では、春の風がカーテンを揺らしている。
「どうですか?」と蓮が尋ねる。
「うん。きっと母も、これを食べて笑ってくれると思う」
そう言って、真理は笑った。
母の味を追いかけて焼き続けたチョコブラウニーは、いつの間にか新しい思い出の味へと変わっていた。
それは、過去と現在をつなぐ、優しい午後の香りだった。

