くるり、甘い午後

食べ物

日曜の午後、古びた商店街の角にある小さな喫茶店「ルーロ」。
カウンターの奥では、店主の美佐子が泡立て器をくるくると回している。
ボウルの中では生クリームがゆっくりと形を変え、白い峰を立てていく。

「今日のは、ちょっと特別なの」
そう言いながら、美佐子は小麦粉と卵を混ぜ、ふんわりと焼き上げたスポンジを巻き始めた。
くるり、くるりと。
柔らかな音が午後の光に溶けていく。

店には、いつもの客が一人。
隅の席に座る青年・悠人。
ノートパソコンの画面を見つめ、コーヒーの湯気の向こうで、少し眉を寄せていた。
彼はこの店の常連で、毎週末、決まってロールケーキを頼む。

「今日もそれでいい?」
「はい、お願いします」
美佐子が笑う。
彼がこの店に通い始めたのは半年前。
初めて来たとき、「ロールケーキって、なんだか落ち着きますね」と言っていたのを、彼女はよく覚えている。

ケーキが出されると、悠人はフォークで端を少し切り、ゆっくりと口に運ぶ。
スポンジのしっとりとした甘みと、生クリームのやさしい香りが広がる。

「今日のは、ちょっと違いますね」
「気づいた?」
「少しだけ…柚子の香りがします」
「正解。うちの庭で採れたやつ。季節の香りを少しだけ混ぜてみたの」

悠人は、微笑んだ。
その笑顔は、どこか懐かしさを含んでいた。

「母がよく作ってくれたんです。失敗ばかりのロールケーキ。巻くときにいつも割れちゃって。でも、それでも美味しくて」
「お母さん、優しい方だったのね」
「はい。…もう、ずいぶん前に亡くなりましたけど」

カップの中のコーヒーが、静かに揺れた。
美佐子は何も言わず、キッチンに戻り、新しい皿を取り出す。

「少し待ってて」

十数分後、テーブルに置かれたのは、小さなロールケーキ。
生地の表面には粉砂糖で花の模様が描かれていた。

「お母さんに贈るなら、どんなケーキがいいと思う?」
「そうですね……ふわふわで、あたたかい味がいいです」
「じゃあ、それを目指してみようか」

それから、悠人は毎週、少しずつケーキ作りを教わるようになった。
卵の泡立て方、巻くときの力加減、クリームの温度。
どれも奥が深く、最初は失敗ばかりだった。

「巻く瞬間に息を止めちゃダメ。リズムでね、くるりと」
「くるり、ですか」
「そう。人生も、ケーキもね」

笑い合いながら過ごすうちに、季節は春へと移り変わった。
商店街には桜並木の花びらが舞い、店の窓から光があふれていた。

そしてある日、悠人はノートパソコンを閉じ、真剣な目で美佐子を見つめた。
「先生。今日こそ、完成させたいです」

美佐子は黙って頷いた。
彼の手は震えていたが、動きには迷いがなかった。
生地を焼き、クリームを塗り、くるりと巻く。
その瞬間、店の時計が午後三時を告げた。

皿に乗せたロールケーキを見つめながら、悠人は小さく笑った。
「割れませんでした」
「きれいに巻けたね」

ひと口食べると、優しい甘さが口いっぱいに広がった。
思わず、涙がにじむ。

「母の味に、少しだけ近い気がします」
「きっと、あなたの想いが届いたのね」

その日、美佐子はそっと言った。
「ロールケーキって、不思議なのよ。巻くたびに、誰かの時間を包むの」

窓の外では、風が花びらを運んでいた。
悠人は小さく息を吐き、優しい声でつぶやく。

「また来週も、作っていいですか?」
「もちろん。くるりのリズムは、まだ続くわ」

午後の光の中で、二人の笑顔が柔らかく溶けていった。
——甘い香りと、くるりの音を残して。