ホップの丘で

面白い

春の風が吹き抜ける丘の上に、ひとりの青年が立っていた。
名前は陽介。
地元の小さなクラフトビール工房で働く、まだ二十代半ばの青年だ。
彼の目の前には、青々とした蔓が支柱を這い上がっている。
ホップ畑――ビールの香りを決める、緑の宝石のような植物だ。

陽介がこの畑に出会ったのは、三年前。
都会の会社を辞め、心が空っぽになって帰郷したとき、偶然通りかかった古い農場で、年老いた農夫がホップの手入れをしていた。
「これがホップか……」
香りを嗅いだ瞬間、胸の奥にふわりとしたぬくもりが広がった。
草の青さと柑橘のような爽やかさ、そして少しの苦み。
その香りに、なぜか涙がこぼれた。

それ以来、陽介はその農夫――松田さんのもとで弟子入りし、ホップ栽培を学び始めた。
朝は霧に濡れた葉を点検し、昼は支柱を組み、夕方は蔓を絡ませる。
地味で根気のいる作業だったが、陽介は不思議と飽きなかった。
季節ごとに香りを変えるホップが、まるで生き物のように思えたのだ。

「陽介くん、ホップはな、人と同じだ。手をかければ応えてくれるし、放っておけば苦くなる」
松田さんの言葉が、今でも耳に残っている。

やがて、松田さんが体を壊し、畑を畳もうとした。
「もう、後継ぎもおらんしな……」
陽介は迷わず言った。
「僕が、やります。この丘を、守りたいんです」
そうして彼は独りでホップの丘を引き継いだ。

最初の年は失敗の連続だった。
風が強すぎて蔓が折れ、梅雨の湿気で病気が広がり、収穫量は目標の半分にも届かなかった。
それでも陽介は、夜な夜なノートに香りの記録をつけた。
「今日は青リンゴみたい」「少しスパイシー」「松の木を思わせる苦み」
まるでホップと対話するように、ひとつひとつ香りを覚えていった。

二年目の夏。
ついに理想のホップができた。
黄金色の毬花を手に取ると、指先から広がる香りに思わず笑みがこぼれた。
「これだ……」
陽介はそのホップを使って、自分のビールを仕込んだ。
名を「丘の息吹」とつけた。
飲んだ人が、風の中に立っているような清涼感を感じるように。

初めての仕上がりを松田さんに届けた日、老人はゆっくりグラスを傾け、目を細めた。
「うまいな。お前のホップの味がする」
その言葉に、陽介の胸が熱くなった。

今では、小さな醸造所に全国から注文が来るようになった。
だが、陽介は変わらない。
朝は畑に出て、風の匂いを確かめ、ホップの葉に語りかける。
「今年もいい風が吹いてるぞ」
丘の上では、蔓がそよぎ、毬花が陽光にきらめいている。

夜になると、工房のテラスで仲間たちとグラスを掲げる。
泡の向こうに見えるのは、あのホップの丘。
香りは優しく、少しだけ苦い――まるで人生そのもののようだ。

陽介は笑いながら、静かに言った。
「ホップの苦みがあるから、ビールはうまいんだ。人生も、きっと同じだな」

風が丘を渡り、ホップの香りが夜空に溶けていった。