春の終わり、山あいの温泉地「湯ノ里」は、まだ桜の花びらが川面を流していた。
古びた湯宿「松の湯」の女将・綾乃は、湯煙に包まれたその景色を、縁側からぼんやりと眺めていた。
綾乃は温泉が好きだった。
湯に浸かる瞬間、体の芯までじんわりと熱が染み込んでいく感覚。
湯気に包まれて、何もかもが溶けていく静けさ。
それは彼女にとって、生きていることを確かめる時間でもあった。
もともと東京で会社勤めをしていた綾乃が、この古い宿を継いだのは三年前。
祖母が急に倒れ、跡を継ぐ者がいなかったからだ。
最初のうちは客も少なく、湯の管理や掃除に追われる毎日だった。
それでも、夜の静かな湯に身を沈める時間だけは、心の支えになっていた。
ある日、一人の青年が宿にやって来た。
「一泊だけ、お願いします」
カメラを肩にかけた青年は、どこか疲れた表情をしていた。
名を尋ねると「高志」と名乗り、フリーの写真家だという。
夕食を終えた後、綾乃が露天風呂の灯を点けに行くと、高志が湯に浸かっていた。
「いいお湯ですね。ここ、泉質が柔らかい」
「山の雪解け水が混じるから、少しぬるめなんですよ」
「なるほど。写真には映らないけど、この湯気の匂いが好きです」
その言葉に、綾乃はふっと微笑んだ。
自分と同じように、温泉そのものを愛している人に出会った気がした。
翌朝、まだ日の昇らないうちに外からシャッターの音がした。
縁側に出ると、高志が湯煙に包まれた川沿いを撮っていた。
「朝の湯気って、生きてるみたいに動くんですね」
「ええ。風の向きひとつで表情が変わるんです」
二人はそれから何度も言葉を交わした。
高志は「温泉地の記憶」というテーマで日本各地を巡っており、この宿もその一つに選んだのだという。
一週間ほど滞在したあと、高志は帰る日を迎えた。
「この宿、また来ます。湯気の奥に、人の温もりがある場所だから」
「お待ちしています」
綾乃は笑って見送ったが、心のどこかで、その言葉を信じていた。
それから一年。
宿は少しずつ評判を取り戻し、再び客が戻ってきた。
ある日、新聞の文化面に「湯けむりの記憶」という写真展の記事が載った。
そこに写っていたのは、まさに「松の湯」の露天風呂だった。
柔らかい湯気の中、誰もいない湯船に朝日が差し込んでいる。
見出しには――
“消えゆく温泉宿の記録”
という言葉。
綾乃は胸が詰まった。
記事を読み進めると、高志は病を患い、取材の途中で亡くなったとあった。
あの約束の日から半年後のことだった。
夜、綾乃は露天風呂にひとり浸かった。
湯の表面に星が揺れ、湯気が静かに昇っていく。
「高志さん、また撮りに来てくださいね」
湯気の中に、カメラを構える青年の姿が見えたような気がした。
翌朝、湯の温度を確かめに行くと、不思議なことに、湯の表面に桜の花びらが一枚だけ浮かんでいた。
その年、宿の常連たちは口をそろえて言った。
「ここの湯、前より柔らかくなったね」
綾乃は笑いながら答えた。
「ええ、この湯には、ちょっとだけ人の想いが溶けているんです」
湯けむりは今日も、山の空へと静かに昇っていく。
それは、湯を愛した人たちの記憶を運ぶように――。

