いつかアメリカを旅してみたい――その夢を、結衣は高校生の頃から抱き続けていた。
理由を聞かれてもうまく説明できない。
ただ広大な道を走り抜ける映像や、古い映画のワンシーンのような夕陽を見たとき、胸の奥がじんわり熱くなるのだ。
大学を卒業してからも、仕事に追われ、貯金は旅行資金ではなく家賃と生活費に消えていった。
それでも夢だけは、心のどこかに小さく灯っていた。
転機は三十歳の春だった。
長年勤めた会社を辞めた友人が、世界一周の写真をSNSに投稿したのだ。
グランドキャニオンの空の青、ルート66のカフェ、自由の女神の足元で笑う姿。
結衣は画面を見つめながら、自分の心に問いかけた。
――私も、行ってみたい。まだ間に合うだろうか。
そこから彼女の計画は静かに動き出した。
英会話教室に通い、休日には旅行ガイドを読みあさった。
半年かけて少しずつ貯金を増やし、翌年の秋、ついに航空券を手に入れた。
行き先はロサンゼルスからニューヨークへ抜ける横断の旅。
夢見たアメリカの広さを、この目で確かめるためだった。
初めて降り立ったロサンゼルスの空は、思っていたよりも乾いていた。
海風の匂い、陽射しの強さ、どこか映画の中に入り込んだような感覚。
レンタカーを借りてハイウェイを走ると、ラジオから流れるカントリーソングが風と混ざって響いた。
英語はまだ拙かったが、店の人は笑顔で話しかけてくれた。
「あなた、日本から? いい旅を!」
その一言で、胸の中の不安が少し溶けた。
アリゾナの砂漠を抜け、グランドキャニオンの縁に立ったとき、結衣は言葉を失った。
あまりの広さと静けさ。
夕陽が岩肌を黄金色に染め、世界の果てまで見渡せるような気がした。
隣で同じように立っていた老夫婦が微笑んで言った。
「この景色は、どこにいても思い出すんだよ」
その言葉は、まるで未来の自分へのメッセージのように響いた。
シカゴではジャズバーで地元の音楽に心を奪われ、ニューヨークではセントラルパークの芝生に寝転んで空を見上げた。
高層ビルの隙間から見える青は、小さくても確かに自由を感じさせた。
旅の終わりが近づくころ、結衣は一冊のノートを開いた。
そこには、訪れた町の名前と、出会った人々の言葉、そしてそのとき感じた温度が丁寧に書き留められていた。
ページをめくるたび、夢が現実に変わっていく音がした。
帰国の日、飛行機の窓から見たアメリカの夜景は、まるで宝石箱のようだった。
光の粒が遠ざかるたび、心の中に新しい決意が生まれた。
――夢は終わりじゃない。またここに戻ってこよう。
日本に帰ってからも、結衣の部屋の壁にはアメリカの地図が貼られている。
次は北部の国立公園を巡ろうか、それとも南部の音楽の街を訪れようか。
地図の上を指でなぞるたび、旅の風がもう一度吹き抜ける。
「夢を叶えるのに、遅すぎることなんてない」
あの日のグランドキャニオンの夕陽を思い出しながら、結衣は静かに笑った。
彼女の心には、いつまでも広いアメリカの空が広がっていた。