春の陽射しがやわらかく差し込む午前の縁側で、沙織は静かに着物の袖を整えていた。
薄桃色の小紋に、桜の花びらが散るような柄。
母が若いころに誂えたもので、少し肩が合わなくなっていたが、糸の艶やかな光沢は今も変わらない。
「やっぱり、着物っていいなあ」
鏡に映る自分の姿を見て、沙織は小さく呟いた。
彼女が着物を好きになったのは、祖母の影響だった。
祖母はいつも季節に合わせた色合いの着物をまとい、帯の結び方ひとつにも心を配っていた。
お茶会や町の行事のたびに、祖母の後ろをちょこちょことついて歩いた幼い日の記憶は、いまも鮮やかに残っている。
けれど、祖母が亡くなってから、着物を着る機会はぐっと減った。
働き始めてからは洋服のほうが楽で、洗濯も簡単。
忙しい日々の中で、タンスの奥に眠る絹の感触を思い出すことも少なくなっていた。
そんなある日、町内会の掲示板に貼られた「着物で歩く春まつり」の案内が目にとまった。
「着物でまちを歩きませんか? 撮影会あり」
懐かしさと少しの勇気が胸に灯った。
──出してみよう。祖母の着物を。
タンスの奥から引き出した箱には、丁寧にたたまれた着物がいくつも並んでいた。
桜色、藍色、菊の文様、秋草の模様。
ひとつひとつに祖母の筆で「春」「夏」「秋」と書かれた小さな札が添えられていた。
ふと、絹の香りがふわりと立ちのぼり、沙織の胸がじんわりと温かくなった。
まつりの日、沙織は淡い水色の訪問着を選んだ。
帯は銀糸がさりげなく光る桜模様。
髪をまとめ、足袋を履き、草履を履く。
鏡の前に立つと、そこには祖母に少し似た自分がいた。
「おばあちゃん、見ててね」
町に出ると、着物姿の人たちがあちこちにいて、花びらが風に舞っていた。
写真を撮り合う人々の笑顔、道端で「素敵ですね」と声をかける通りすがりの老人。
着物を着ているだけで、まるで時間がゆっくり流れているようだった。
桜並木の下で、同年代の女性が声をかけてきた。
「その帯、素敵ですね。ご自分で結ばれたんですか?」
「はい、なんとか……祖母に教わったんです」
「まあ、そうなんですか。私も最近、母の着物を着るようになって」
二人はすぐに打ち解け、着物の手入れや季節の合わせ方、昔の染めの話などに花を咲かせた。
気がつけば、夕方の風が少し冷たくなっていた。
帰り道、沙織は祖母と歩いた小道を通った。
そのころは、ただ「きれいだな」と思うだけだった着物。
今はその中に、時間を超えて繋がる手のぬくもりを感じる。
糸を選び、柄を染め、針を通した人々の想いが一枚の布の中に宿っている。
家に戻り、着物を脱ぐ前に、もう一度鏡の前に立った。
着物を通して、祖母の声が聞こえる気がした。
「よく似合ってるよ、沙織」
その夜、彼女は着物のたとう紙に小さく書き添えた。
――「春まつりの日に着用。おばあちゃんと歩いた気分。」
絹の手触りを指先に残したまま、沙織はそっと微笑んだ。
もう一度、着物のある暮らしを始めようと思った。
タンスの奥に眠っていた時間が、再び息を吹き返す。
それはまるで、季節の風が新しい花を咲かせるような、やわらかな再生の瞬間だった。