朝、冷蔵庫の扉を開けると、そこにはいつもの一本が待っている。
白くて、静かで、どこか温かい気配を持った牛乳の瓶。
真由はその姿を見るたび、少しだけ胸が落ち着くのを感じていた。
彼女は小さな町のパン屋で働いている。
開店は朝七時。
空がまだ薄青く、街が目を覚ます前の静寂の時間に、パンの焼ける香りとともに一日が始まる。
店の奥の休憩室に、小さな冷蔵庫がある。
そこにはいつも、真由の牛乳が入っている。
仕事仲間たちはコーヒー派や紅茶派だが、真由だけは毎朝、グラスに注いだ牛乳を一気に飲み干す。
「まだ子どもみたいね」
よく笑われるけれど、彼女にとってそれは、一日の始まりを告げる大切な儀式だった。
牛乳を飲むとき、真由はよく母の顔を思い出す。
小学生のころ、学校から帰ると、母が温めた牛乳を出してくれた。
マグカップの縁に白い膜ができるのを、ふたりで笑いながら吹いた。
「真由、頑張った日にはね、体がちゃんとわかるの。牛乳が一番おいしく感じるのよ」
その言葉の意味を、当時の彼女はよく理解していなかった。
母は数年前に亡くなった。
突然の病気で、あっという間だった。
悲しみの中で真由は、何も食べられなくなった。
けれど、不思議なことに牛乳だけは喉を通った。
「これだけは、母が作ったみたいな気がする」
そうつぶやきながら、彼女は毎晩、冷たい牛乳をゆっくり飲んだ。
白い液体が喉を伝うたび、涙が自然とこぼれた。
季節がめぐり、店の常連客も増えてきた。
ある日、年配の男性がパンを買いに来た。
「この店のクリームパン、牛乳の味がして懐かしいね」
そう言って笑ったその人は、牛乳配達をしているという。
「君も牛乳、好きなのかい?」
真由がうなずくと、彼は少し目を細めて、
「今度、うちの牧場に遊びにおいでよ。しぼりたてを飲ませてあげる」
と声をかけてくれた。
週末、真由はその牧場を訪れた。
広い空と、のんびりと草を食む牛たち。
風が甘くて、どこか懐かしい匂いがした。
牛舎の中で、搾りたての牛乳を手渡された瞬間、彼女の胸がじんと温かくなった。
透明な瓶の中にある白は、まるで光そのものだった。
「この牛乳、温かいんですね」
思わずこぼれた言葉に、配達の男性は笑ってうなずいた。
「命の温度だよ。時間が経つと冷たくなるけど、それでもやさしさは消えない」
その言葉を聞いた瞬間、真由の中で、母の声が重なった。
帰り道、瓶を両手で抱えながら、彼女は小さく呟いた。
「お母さん、私、元気だよ」
次の朝。
パン屋の開店準備が始まる前に、真由はグラスに牛乳を注いだ。
外はまだ暗く、街は静まりかえっている。
けれど、グラスの中の白い液体だけが、やわらかな光を放っているように見えた。
一口飲むと、ほんのり甘くて、胸の奥まで染みわたる。
――頑張った日には、牛乳が一番おいしく感じるのよ。
母の声が聞こえた気がした。
そして真由は、今日も新しいパンを焼くために、静かにオーブンのスイッチを入れた。
白い時間が、またひとつ、始まる。