「いらっしゃいませ」
木の香りがする小さなカフェの扉を押すと、優しい声が響く。
会社帰りの夕暮れ、少し冷えた風に頬を撫でられながら、真琴は迷わずカウンター席に腰を下ろした。
「いつもの、ですか?」
バリスタの青年が笑顔で声をかけてくる。
「うん、ほうじ茶ラテで」
湯気とともに立ちのぼる香ばしい香り。
口に含むと、ほのかな苦みとやさしい甘みが体の奥まで広がっていく。
カフェインの刺激が強いコーヒーは、胃が弱い真琴には少し重たい。
けれど、このほうじ茶ラテは違った。
日々の疲れをゆっくりとほどいてくれる、柔らかな魔法のような飲み物だった。
真琴が初めてほうじ茶ラテを口にしたのは、三年前の冬。
仕事で大きな失敗をして、心がすっかり折れてしまった夜だった。
会社の帰り道、ふと足が止まった小さなカフェ。
寒さを逃れるために入っただけの場所で、なんとなく注文したのが「ほうじ茶ラテ」だったのだ。
そのときの温かさを、真琴はいまでもはっきり覚えている。
「大丈夫だよ」
まるでそう言ってくれているかのような、ほうじ茶の香り。
飲み干すころには涙がにじんで、けれど少しだけ前を向ける気がした。
それ以来、真琴は疲れたり落ち込んだりしたとき、このカフェに通うようになった。
ある日、仕事帰りに店へ向かうと、カウンターの青年が珍しく困った顔をしていた。
「今日は……ほうじ茶ラテ、出せないんです」
「え?」
仕入れ先のトラブルで、ほうじ茶の茶葉が届かないという。
代わりにどうか、と差し出されたのは抹茶ラテだった。
「申し訳ないんですが」
青年の申し訳なさそうな顔を見て、真琴は小さく笑った。
「じゃあ、それください」
抹茶ラテは苦みが強くて、あまり得意ではない。
けれど、青年が丁寧に泡を立て、心を込めて差し出してくれたその一杯は、意外にも悪くなかった。
「実は僕、ここに勤めてから、ほうじ茶ラテが一番人気って知って驚いたんです」
青年は、ふとした拍子に語り出した。
「コーヒーや紅茶よりも、頼む人が多いんですよ。ほっとできるから、かな」
真琴は頷いた。
「私にとっては、癒やしの味なんです。大変だった日も、ここで飲むと落ち着く」
そう言ったとき、青年が少し目を丸くした。
「……実は僕も、そうなんです」
「え?」
「働いてる側なのに変ですよね。でも、香りを立てながらお客さんに渡すと、自分も癒やされるんです」
思わず、二人で笑い合った。
それから数日後、仕入れの問題が解決し、またほうじ茶ラテがメニューに戻ってきた。
真琴が「いつもの」を頼むと、青年は嬉しそうに差し出してくれた。
カップを両手で包み込む。ふっと肩の力が抜けていく。
「やっぱり、これだなぁ」
そんな真琴を見て、青年が静かに言った。
「……よかったら、今度一緒に新しいブレンドを試してもらえませんか?もっと美味しいほうじ茶ラテを作りたいんです」
突然の申し出に真琴は驚いたが、心の奥がふわりと温かくなるのを感じた。
「いいですよ。私、ここに通ってる理由のひとつは、この一杯を作ってくれるあなたの手なんですから」
青年は顔を赤らめて、「ありがとうございます」と小さく頭を下げた。
ほうじ茶ラテはただの飲み物ではない。
それは、真琴にとって「心を取り戻す合図」であり、
誰かと優しさを分け合える「きっかけ」だった。
そして今日も、彼女はカウンター席でほうじ茶ラテを受け取る。
香ばしい香りと温もりに包まれながら、ゆっくりと前に進んでいく。