孤独な牙と小さな手

動物

山の奥深く、古い樹々が風にざわめく森に、一匹の狼が棲んでいた。
名をつける者もいないその狼は、ただ群れからはぐれた流れ者として生きていた。
仲間を失ったのは数年前の冬のことだ。
雪嵐の夜、獲物を追いかけて谷に迷い込み、気づけば一匹だけが生き残っていた。
以来、彼は孤独に耐えながら森をさまよっていた。

春になると、森には小鹿や鳥の雛が生まれ、命の息吹が満ちる。
しかし狼は、自らの牙と爪が血を求めるたびに、どこか胸の奥が痛んだ。
生きるために狩るのだと分かってはいる。
けれど、かつて群れで分け合った温もりを知らぬふりはできなかった。

ある夕暮れ、狼は川辺で不思議な光景を目にした。
人間の子どもが一人、足を怪我して座り込んでいたのだ。
赤い血が小さな足首を染め、泣き声が森に響いていた。
狼は本能的に身を隠した。人間は恐ろしく、そして危うい存在だ。
しかし、子どもの涙に耳を傾けているうちに、彼の中の何かが揺れ動いた。

近づけば怯えられるだろう。
だが狼は、そっと川に顔を浸して苔をくわえ、子どもの傍に置いた。
驚いた子どもは最初、石を掴んで構えたが、やがて苔を傷口に当てると痛みが和らいだのか、泣き声が小さくなった。
狼はただ無言で、その様子を見守った。

それから数日、狼は遠くから子どもを見張った。
子どもは小さな弓で鳥を追い払い、草の実を食べて命をつないでいた。
だが弱った体では限界があった。
ある夜、冷たい雨が降り出すと、子どもは震えながら眠りに落ち、今にも息が絶えそうに見えた。
狼は迷った末、自分の巣穴に子どもを運び入れ、体を寄せて温めた。

夜明け、子どもは狼の毛皮に包まれて目を覚ました。
怯えるどころか、不思議そうに笑った。
小さな手が狼の首筋に触れたとき、彼の胸の奥で長い間忘れていた感情が蘇った。
――仲間を想う心だ。

やがて森に子どもを探す人間たちが現れた。
たいまつの灯りが夜を照らし、声が響く。
その光景を見た子どもは立ち上がり、狼に別れを告げるように頭を下げた。
狼は何も言えず、ただ川のほとりまで見送った。
子どもが呼ばれ、家族の腕に抱かれると、狼は静かに背を向け、森の奥へ消えた。

それ以来、狼は再び一匹で生きていった。
だが以前の孤独とは違っていた。
心の中に温かな火が灯っていたのだ。
夜、星空を見上げるたび、彼は小さな友を思い出した。
あの笑顔は、群れを失った心に新しい絆を刻みつけた。

森に生きる狼は、今も一人で狩りをし、風に耳を澄ませている。
だが、もし再びあの子が成長してこの森を訪れる日が来たなら、その匂いと声を決して忘れはしないだろう。