春が過ぎ、梅の実が青く膨らむ頃になると、遥はそわそわし始める。
庭の片隅に植えられた梅の木は、毎年たっぷりと実をつけ、その一つひとつを摘み取るのが彼女の楽しみだった。
六月の湿った空気の中、かごを手に梅の枝を見上げる。
青々とした果実が陽を浴びて輝いている。
遥は一つひとつ丁寧に収穫しながら、ふと亡き祖母の姿を思い出した。
祖母は生前、梅酒作りの名人だった。
台所に広口瓶を並べ、氷砂糖と青梅を交互に重ねていく姿は、幼い遥にとってまるで儀式のように神聖だった。
「梅はね、手をかけた分だけ美味しくなるんだよ」
祖母はそう言いながら、瓶の中で透きとおる琥珀色に変わっていく梅酒を愛おしそうに眺めていた。
遥はまだ子どもで、飲むことは許されなかったが、梅酒の甘酸っぱい香りが漂う台所は、祖母との大切な記憶そのものだった。
やがて時が流れ、祖母は旅立った。
残された瓶の梅酒を初めて口にしたとき、遥は涙が止まらなかった。
口の中に広がる甘みと酸味、その奥に潜む深い温もりは、祖母の声や笑顔を一気に蘇らせたからだ。
それから遥は、毎年梅酒を漬けるようになった。
祖母から受け継いだ習慣は、彼女の生活に欠かせないものとなり、同時に心を支える拠り所でもあった。
今年も瓶をいくつか並べ、氷砂糖をそっと重ねていく。
梅と砂糖の層ができあがると、遥は焼酎をゆっくりと注いだ。
透きとおった液体が瓶を満たし、梅の青い実を包み込む。
その瞬間、ふと心が落ち着く。
「おばあちゃん、今年も漬けたよ」
そう小さくつぶやき、遥は瓶の蓋をしっかりと閉じた。
梅酒を漬けることは、時間と向き合うことでもある。
数か月後に少しずつ色が変わり、香りが増していく。
焦っても急かしても仕方がない。ただ静かに待つだけ。
その過程は、遥に人生の歩み方を教えてくれるようだった。
彼女は仕事で忙しい日々を過ごしていたが、台所に並ぶ梅酒の瓶を眺めると、不思議と肩の力が抜けた。
瓶の中の梅は少しずつ変化しながらも、確実に美味しくなっていく。
人の心も同じだと遥は思う。
時間をかけて熟成するからこそ、深みが生まれるのだと。
秋が過ぎ、冬の冷たい風が吹き始める頃。
最初に漬けた瓶を開ける日がやってきた。
栓をひねると、甘酸っぱい香りがふわりと広がり、台所を包む。
グラスに注いだ琥珀色の液体は、光を受けてきらめいていた。
遥はゆっくりと口に含む。
柔らかな甘みと梅の酸味が舌に広がり、喉を通っていく。
その味わいは、祖母と過ごした時間を抱きしめるように優しかった。
「やっぱり、梅酒っていいな」
独り言のように呟き、遥は微笑んだ。
その夜、遥は友人を家に招き、自家製の梅酒を振る舞った。
友人たちは「美味しい!」と目を輝かせ、何度もおかわりを求めた。
梅酒を囲み、笑い声が絶えない時間は、祖母が大切にしていた“人を結ぶ食卓”そのものだった。
遥は心の中で祖母に語りかける。
――おばあちゃん、梅酒は今もこうして、私の大切な人たちをつなげてくれているよ。
夜が更け、友人たちが帰ったあと、空になったグラスを見つめながら遥は思った。
梅酒はただの飲み物ではない。
時間と想いを閉じ込め、人を結び、記憶を蘇らせる小さな宝物なのだと。
来年も、その次の年も、遥は梅を摘み、氷砂糖を重ね、酒を注ぐだろう。
そして瓶を抱きながら、亡き祖母と静かに語り合うのだ。
梅の実がある限り、遥の心に祖母の温もりは生き続ける。