商店街の一角に、小さなかりんとう専門店「ほのか」がある。
暖簾をくぐると、甘く香ばしい匂いが鼻をくすぐり、揚げたての黒糖かりんとうが木箱に並んでいる。
その店を営むのは、五十代半ばの女性・佐和子だ。
佐和子がかりんとう作りに目覚めたのは、母の台所だった。
幼い頃、冬の寒い夕方になると、母が大きな鍋に油を張り、小麦粉を練った生地を細長く切って揚げてくれた。
じゅわっと泡を立てて揚がったそれに、黒糖の蜜をからめた瞬間、部屋中に甘い香りが広がる。
窓の外の冷たい風も、台所の温かさと匂いで忘れてしまうほどだった。
佐和子にとって、かりんとうは「母の愛情そのもの」であり、心を満たす特別なお菓子だった。
やがて大人になり、会社勤めをして結婚し、子どもを育てる日々。
忙しさに追われ、母の味を思い出すことも減っていった。
だが、数年前、母が他界したとき、仏壇に手を合わせながらふと思い出したのは、あのかりんとうの甘さだった。
「あの味を残したい」と、自然に心が動いた。
最初は家族に振る舞う程度だった。
だが子どもたちが「市販のより美味しい」と喜び、友人たちも「売ったらいいのに」と背中を押してくれた。
少しずつ改良を重ね、黒糖だけでなく、胡麻や抹茶、塩味など工夫を凝らすようになった。
油の温度で食感が変わることを学び、蜜のからめ方ひとつで甘さの印象が違うことにも気づいた。
気づけば、ノートにぎっしりと試作の記録が積み重なっていた。
退職を機に、佐和子は思い切って小さな店を開いた。
家族や友人は驚いたが、「母のかりんとうを伝えたい」という思いが揺らぐことはなかった。
開店当初は不安で、揚げる手も震えた。
だが、最初に訪れたお客さんが「懐かしい味だ」と笑顔を見せてくれたとき、胸の奥に温かい火が灯った。
やがて常連客が増え、商店街の子どもたちは「学校帰りのおやつ」として店に寄るようになった。
年配の人たちは「昔、祖母が作ってくれた味に似ている」と言い、若い人たちは「新しいフレーバーが楽しい」と喜んだ。
佐和子はそのたびに、母の笑顔を思い出した。
ある日、ふらりと入ってきた一人の女性客がいた。
彼女は黙ってかりんとうを口にし、涙ぐみながら「小さい頃、母と一緒に食べた味に似ています」とつぶやいた。
その姿に佐和子は胸を打たれた。
「私のかりんとうは、誰かの思い出を呼び起こすものなんだ」と気づいたのだ。
かりんとうは、ただの揚げ菓子かもしれない。
だが、そこには人の記憶やぬくもりが宿る。
母が残してくれた味を、自分なりに磨き続けて、人と分かち合うこと。
それが佐和子にとっての生きがいになっていた。
閉店後の店内に一人残り、揚げ油を拭き取りながら佐和子は思う。
「母さん、今日も喜んでくれた人がいたよ」。
すると、どこからか黒糖の甘い香りがふわりと漂い、母の笑顔が浮かぶ気がした。
小さな店「ほのか」は、今日も商店街の片隅で灯をともす。
かりんとうの香ばしい匂いとともに、人々の心に懐かしさと温もりを運びながら。