イランイランの香りに包まれて

面白い

休日の午後、涼子は小さなアロマランプに火を灯した。
オイル皿に数滴落としたのは、イランイランの精油。
ふわりと甘く、どこかエキゾチックで、同時に安らぎを与えるような香りが部屋に広がっていく。
目を閉じると、潮風が吹く南の島の景色が脳裏に浮かんだ。

彼女がイランイランと出会ったのは、五年前のバリ島旅行だった。
心身ともに疲れ果てていた時期、親友に半ば強引に誘われて出かけた旅先で、ホテルのスパに漂っていたのがこの香りだった。
ベッドに横たわり、オイルマッサージを受けながら深呼吸すると、胸の奥の重石がすっと消えていくような気がした。
以来、涼子にとってイランイランは「心を解き放つ香り」となった。

社会人になって十年以上。
仕事は充実しているはずなのに、日々の緊張や責任の重さに押しつぶされそうになることも少なくない。
そんなとき、涼子はいつもこの香りに救われてきた。
恋愛がうまくいかなかった夜、上司に叱責されて泣きそうになった日、何もやる気が出なかった休日――。
ランプに火をつけ、部屋いっぱいに広がる甘い香りに身をゆだねると、自分を取り戻せる気がするのだ。

ある晩、香りに包まれながらふと思った。
「どうして私は、こんなにもイランイランに惹かれるんだろう」
調べてみると、イランイランは「花の中の花」という意味を持ち、心を落ち着けると同時に高揚感も与えるという。
リラックスと幸福感、その両方を同時に与えてくれる稀有な香り。
なるほど、と頷きながら、涼子はそれを自分の生き方と重ねた。
完璧でなくていい。
落ち込むことも、嬉しくて舞い上がることも、どちらも大切な自分の一部。
イランイランが放つ香りのように、相反するものを抱きしめていいのだと。

そんな折、偶然の出会いが訪れた。
近所の小さな雑貨店で、彼女がイランイランの精油を手に取っていると、隣にいた男性が声をかけてきた。
「それ、いい香りですよね。僕も好きなんです」
驚いて振り返ると、柔らかな笑みを浮かべた男性が立っていた。
年齢は自分と同じくらいだろうか。
控えめに差し出された名刺には、植物療法士と書かれていた。

店の外のベンチで話すうち、彼もまた香りに救われてきた人だと知った。
心身を壊しかけた過去、そこから立ち直る過程でアロマに出会い、今は同じように悩む人の力になりたいと活動しているのだという。
共感が胸に広がった。
初対面なのに、不思議と安心できる。
イランイランの甘い香りが、二人の間をそっとつないでくれている気がした。

それから何度か会うようになり、香りのブレンドを試したり、アロマキャンドルを一緒に作ったりした。
ある日、彼が言った。
「イランイランって、人と人の距離を縮めてくれる香りでもあるんですよ。リラックスして、本当の自分を出せるから」
その言葉に、涼子は胸が熱くなった。
たしかに彼と話していると、飾らない自分でいられる。

やがて、涼子の部屋には二つのマグカップが並ぶようになった。
ランプの柔らかな灯りとともに、イランイランの香りが漂う。
以前は孤独を癒すために焚いていた香りが、今は誰かと共有する幸せを象徴するものになっていた。

窓を開けると、秋の風が静かに吹き込んできた。
彼女は小さく笑みを浮かべ、心の中でつぶやいた。
「イランイランに出会えたから、私もあの人に出会えたんだ」

甘美で少し切なく、けれど確かに心を満たしてくれる香り。
これからもずっと、この香りに包まれて生きていきたい――そう思いながら、涼子はランプの炎を見つめ続けた。