幼いころ、台所の奥から聞こえてくるリズムが好きだった。
トントントン……木の鉋が木材を削るような乾いた音。
それは、母が鰹節を削る音だった。
陽一は、削りたての鰹節を手のひらにのせてもらうのが楽しみでならなかった。
薄く透けるほどのかけらを口に含むと、ふわりと広がる香りと、深い旨みが舌に残った。
味覚だけでなく、家の温もりをそのまま食べているような気がして、幼い心は安心に満たされた。
やがて成長するにつれて、世の中は便利になり、スーパーに行けば削り済みの袋入り鰹節が簡単に手に入るようになった。
母も忙しさにかまけて、鉋箱を取り出す機会は減っていった。
それでも陽一は、正月や特別な日には必ず母にお願いして、削りたてを味わった。
大学進学を機に上京した陽一は、一人暮らしを始めた。
初めての自炊はぎこちなかったが、味噌汁の香りを確かめるとき、やはり鰹節の出汁を求めた。
インスタントの顆粒だしで済ませることも多かったが、心が疲れたときはわざわざ削り器を取り寄せて、かたい鰹節を鉋で削った。
音を聞くだけで、遠い実家の台所を思い出せたのだ。
ある日、社会人二年目を迎えた頃、仕事に追われて心が荒れていた陽一は、ふと「鰹節を削る店」を見つけた。
店先には削り器がずらりと並び、香ばしい香りが漂っている。
中に入ると、年配の店主が鉋を動かす手を止め、にこやかに迎えてくれた。
「お若いのに珍しいね。鰹節に興味があるのかい?」
「はい。小さいころから好きで……」
陽一が話すと、店主は嬉しそうに頷いた。
そこから、鰹節の作り方や種類、削り方の工夫について延々と語ってくれた。
薫煙の回数や天日干しの加減で風味が変わること、花鰹と糸削りの使い分け。
陽一は夢中で聞き入った。
帰り際、店主は「これを持っていきなさい」と、小袋に入った削りたてを渡してくれた。
家に帰ってすぐ、味噌汁を作り、その鰹節をひとつまみ散らした。
香りが立ちのぼり、口に含んだ瞬間、胸の奥がじんと温まった。
まるで母の手が肩に触れたように。
その日から陽一は、休日になるとその店に通った。
削り方を教わり、だしの取り方を試し、やがて自分でも人にふるまいたくなった。
友人を招いて味噌汁をふるまうと、「こんなに違うんだ」と驚かれた。
誰かに喜んでもらえるたび、鰹節がただの食材ではなく、人と人をつなぐ糸のように思えてきた。
数年後、母が体調を崩し、久しぶりに実家へ帰った。
台所に立つと、棚の奥に昔の削り器が眠っていた。
手に取ると、少し錆びついているが、まだ使える。
陽一は鉋をかけ、削り出した。
トントントン……懐かしい音が響く。
母は寝室から顔を出し、微笑んだ。
「その音を聞くと、元気が出るわね」
陽一はその時、はっきりと気づいた。
自分が鰹節を好きなのは、味だけのためではない。
その音と香りが、家族の記憶や絆を呼び覚ましてくれるからだ。
母に味噌汁を差し出すと、母は一口すすり、「やっぱり、これね」と目を細めた。
陽一は胸の奥に、静かな誇りを感じた。
今も彼は、都会の小さな台所で鉋を走らせている。
音と香りが広がるたびに、遠い過去と今がひとつにつながっていく。
鰹節はただの乾物ではなく、彼にとって人生を支える旋律なのだ。