ある村の外れに、小さな家がありました。
そこには若い母親と、生まれて間もない赤ん坊が暮らしていました。
父親は遠い町へ働きに出ていて、母と子だけで夜を過ごすことが多かったのです。
夜になると、赤ん坊は不思議と目をぱっちり開け、泣き声をあげることがありました。
母はそのたびに、赤ん坊を胸に抱きかかえ、窓の外に広がる月を見上げながら、子守唄を口ずさみました。
――ねんねんころり、よい子はねんね。
その声は静かで、どこか切なげでした。
母自身も、幼い頃に同じ歌を祖母から聞いて育ったのです。
けれど不思議なことに、その唄を歌うと、赤ん坊はすぐに泣きやみ、すやすやと眠りに落ちていきました。
村の人々は噂しました。
「きっとあの子守唄には、精霊の力が宿っているんだ」
「昔から伝わる歌は、人の心だけじゃなく魂も包むんだろう」
母はただ微笑み、赤ん坊の寝顔を見つめるだけでした。
ところがある晩、山の向こうから大きな嵐がやってきました。
風は木々を揺らし、窓を激しく叩きつけました。
赤ん坊は驚いて泣き出し、母も不安に胸をしめつけられました。
彼女は必死に子守唄を歌いましたが、嵐の轟音にかき消され、赤ん坊は泣き止もうとしません。
そのとき、不意に窓の外からやわらかな声が聞こえました。
「――ねんねんころり……」
それは風の音に混じりながらも、はっきりと響く歌声でした。
驚いて窓を開けると、月明かりの中に白い影が見えました。
長い髪を揺らす女性のようでもあり、淡く光る精霊のようでもありました。
声は続きます。
母もそれに合わせて歌いました。
二つの声が重なった瞬間、嵐の音は遠のき、赤ん坊は安心したように眠りにつきました。
母は涙を浮かべながら問いかけました。
「あなたは……誰なのですか?」
すると影は微笑み、静かに言いました。
「私はあなたの祖母。この子守唄を最初にあなたに授けた者です。歌は血を越え、時を越え、子を守るために響き続けるのです」
母ははっとしました。
確かに、幼いころ眠れぬ夜、祖母はいつも同じ歌を口ずさんでくれました。
声を聞くたびに、怖さや寂しさが溶けていったのを覚えています。
「どうか、この子も守ってください」母は手を合わせました。
祖母の影は頷きました。
「安心なさい。この歌は代々受け継がれてゆく。歌うたびに、私もあなたも、この子と共にいるのだから」
そう言うと影は月に溶けるように消え、静かな夜が戻りました。
それから母は、どんなに嵐が荒れても、心細い夜でも、ためらわず子守唄を歌いました。
赤ん坊はいつも安心して眠り、その寝顔はやがて成長し、笑顔の少年へと変わっていきました。
――子守唄は、ただ眠りを誘う歌ではありません。
愛をつなぎ、過去と未来を結ぶ、不思議な橋なのです。
村の人々は今でも語り伝えています。
「あの家からは、夜になると優しい歌声が聞こえる。それは母と祖母と、そして子を包む守りの唄だ」と。
そして今夜もまた、月の光の下で、一つの子守唄がそっと流れています。