佐伯真一は、子どものころからえのき茸が好きだった。
しゃぶしゃぶに入れたときのしゃくしゃくとした歯ざわり、鍋の底でひっそりと煮えて黄金色に変わった姿、そしてバターと醤油で炒めたときに漂う香り。
そのどれもが、彼にとっては幼い日の記憶と結びついていた。
実家は小さな町の八百屋だった。
母は仕入れてきたえのきを新聞紙でくるみ、冷暗所に大事に置いた。
「この子は繊細だからね」と母が言うたび、真一はまるでえのきが生き物であるかのように感じ、親しみを覚えた。
やがて大人になり、都会の会社勤めを始めた。
忙しい日々のなかで、自炊する時間はほとんどなかったが、えのきだけは欠かさず冷蔵庫に常備した。
袋を開けるときに立ちのぼる土の匂いが、彼をほんの少しだけ実家へ連れ戻してくれるからだった。
あるとき、彼は近所のスーパーで見慣れぬ女性と出会った。
彼女は野菜売り場で、手に取ったえのき茸をじっと眺めていた。
細い指が白い束をそっと撫で、まるで言葉をかけるような仕草だった。
その光景に心を動かされた真一は、思わず声をかけた。
「えのき、好きなんですか?」
女性は驚いたように振り返ったが、すぐに柔らかな笑顔を見せた。
「はい。小さいころ、祖母がよく味噌汁に入れてくれて……その味が忘れられなくて」
それが、花という名の女性との出会いだった。
二人はやがて、休日ごとに料理を一緒に作るようになった。
花はえのきを刻んで卵焼きに混ぜたり、天ぷらにして塩で食べたりと、新しい食べ方を提案した。
真一は驚きながらも、その一つひとつを楽しんだ。
えのきが持つささやかな旨みや歯ざわりが、想像以上に料理を引き立てることを再発見したのだ。
しかし、花には秘密があった。
彼女の祖父母は山間で小さなきのこ農家を営んでいたが、高齢と過疎の影響で廃業の危機にあった。
えのきを育てる環境は手間がかかり、継ぎ手もいない。
花は祖母の味を守りたい気持ちと、現実との板挟みに悩んでいた。
それを知った真一は、胸が熱くなった。
自分にできることはあるだろうか。
子どものころからえのきと共に歩んできた自分に。
「手伝わせてください。僕もえのきが好きなんです。だから、放っておけません」
そうして二人は、週末になると山の農園に通うようになった。温度と湿度を細やかに管理し、光を調整する。菌床の表面から白い糸のような芽が顔を出す瞬間は、まるで命が生まれるのを見届けるようで、真一の心を震わせた。
作業は決して楽ではなかった。
汗をかき、失敗も重ねた。それでも、白く伸びたえのきの束を収穫するたびに、二人は声を合わせて笑った。
細く頼りなさそうに見えて、実はたくましいその姿に、自分たちの未来を重ね合わせることができたからだ。
数年後、小さな直売所を開いた。
名前は「白糸の里」。
訪れる人々に、新鮮なえのきを使ったスープや炒め物をふるまうと、その素朴な味に誰もが驚いた。
花は祖母から受け継いだレシピを披露し、真一は育てる喜びを語った。
えのき茸がつないでくれた縁は、やがて二人の人生を大きく変えた。
細く白い糸のように見えるその存在は、実は人と人とを結び、未来を紡ぐ力を秘めていたのだ。
秋の朝、収穫を終えた二人は山の空気を胸いっぱいに吸い込みながら顔を見合わせた。
「えのきって、不思議ですね。こんなに細いのに、強い」
「うん。だから僕たちも、きっと大丈夫だ」
そう言って笑い合う二人の背後には、白い糸のようなえのき茸が朝の光に照らされ、きらきらと輝いていた。