静かな漬けだれ

食べ物

ラーメン屋「天光」の厨房は、昼の忙しさが一段落した午後のひととき、しんと静まり返っていた。
カウンター越しに見える大鍋からは、まだ白濁した豚骨スープの湯気が立ちのぼり、店全体をやさしい香りで包んでいる。

店主の亮介は、まな板にずらりと並んだ半熟卵をじっと見つめていた。
彼の手は、自然と動く。
殻をむき、漬けだれの入ったボウルに卵を沈めていく。
その動作は何百回、何千回と繰り返してきたものだが、亮介の中には決して消えない思いがある。

――味玉は、父の形見だ。

十年前、まだ彼が修行中だった頃。
父が営む小さなラーメン屋で、唯一誰も真似できないと評判だったのが「味玉」だった。
とろりとした黄身、ちょうどいい塩加減、そして醤油と出汁の香りが口いっぱいに広がる。
常連客はラーメンにトッピングせず、味玉だけを酒の肴にして帰るほどだった。

「卵はな、急かすな。ゆっくり味を含ませてやるんだ」

父が笑いながらそう言っていた日のことを、亮介は鮮明に思い出す。
だが父は突然の病でこの世を去り、秘伝の配合は書き残されることなく消えた。
亮介が受け継いだのは、味を探り続ける記憶と、何度失敗しても諦めない執念だけだった。

独立して自分の店を開いた後も、彼は味玉を作り続けた。
だが、父のあの味にはなかなか届かない。
客から「ここのラーメンは旨いけど、味玉は普通だね」と言われるたび、胸がちくりと痛んだ。

ある夜、閉店間際に一人の老客が訪れた。
灰色の帽子をかぶり、杖をついたその男は、静かにラーメンを頼んだ。
そして味玉を口に運ぶと、少し目を細めて言った。

「……あの人の味に、よう似てる」

亮介は驚き、思わず箸を止めた。
「ご存知なんですか、父を?」
「昔な、あの店によう通ったんじゃ。お前さんの父上、味玉を作るとき、卵に声をかけとったのを覚えとるよ」

――声をかける?
亮介は思わず笑った。
だが老人は真顔で続けた。

「『今日もよく茹で上がったな』『うまく漬かれよ』ってな。冗談のようで、あれが不思議と味に出とった。料理は心を移すもんじゃろ」

その夜、亮介は試しに卵に語りかけてみた。
「お前はいい色に染まるぞ」「明日のお客さんを喜ばせてくれ」
ふざけているようで、なぜか胸が温かくなった。
父が同じことをしていたのだと思うと、孤独の中に小さなぬくもりが宿った。

翌日、その味玉を出すと、常連客の一人が「今日のは特にうまいな」と言った。
自分でも驚くほど、黄身に奥行きが出ていた。

それから亮介は、味玉を仕込むたびに声をかけ続けた。
単なる習慣ではない。父とつながるための儀式のように。

年月が経ち、今では「天光」の味玉は評判となり、遠方からわざわざ食べに来る客も増えた。
だが亮介にとって、それは父の味を完全に再現したという意味ではなかった。
父の味玉は父のもの、自分の味玉は自分のもの。
けれど心を込めて卵に向き合う姿勢だけは、確かに受け継いだのだ。

今日も仕込みの時間。
「いい色に漬かれよ」
そっと声をかけると、卵の表面に湯気がやわらかく揺れた。
父の笑顔がふと胸に浮かび、亮介は少しだけ目を細めた。

味玉はただの添え物ではない。
一つひとつに、記憶と時間と、そして親子の絆が染み込んでいるのだ。