朝の通勤電車の中で、佐藤はふと自分の胸元に目を落とした。
結び目がやや歪んだネクタイが、ぎこちなく彼のシャツを押さえ込んでいる。
鏡を見たときはきちんと結べていたはずなのに、電車に揺られているうちにずれてしまったらしい。
彼にとってネクタイは、ただの服飾品ではなかった。
ある意味、人生の節目を刻んできた象徴のような存在だったのだ。
最初にネクタイを締めたのは、中学の卒業式だった。
校則で決められた簡素な制服用ネクタイ。
父が慣れた手つきで結んでくれたとき、佐藤は胸の奥がくすぐったいような誇らしい気持ちを覚えた。
普段は寡黙な父が、そのときだけは「こうやって少しきゅっと締めると、背筋も伸びるだろう」と優しく笑ったのを、今でも鮮明に思い出す。
高校、大学と進むにつれて、ネクタイは特別な日のしるしになった。
入学式、友人の結婚式、そして就職活動。
スーツに合わせた一本の紺色のネクタイは、無数の面接を共に駆け抜けた相棒だった。
緊張で手が震え、結び目がうまく整えられずに鏡の前で何度もやり直した夜のことを思い返すと、今でも額に汗がにじむ気がする。
社会人になって数年。
毎日ネクタイを締める生活が当たり前になった頃、佐藤は一人の女性と出会った。
彼女は営業先の受付で働いており、明るい声と柔らかな笑顔が印象的だった。
最初は挨拶を交わすだけだったが、次第に言葉を重ねるようになり、やがて食事に誘う関係になった。
ある日、彼女がふと口にした。
「佐藤さんのネクタイ、いつもきれいに結ばれてますね。そういうところ、きちんとしてるなって思います。」
何気ない一言だったが、佐藤の心は大きく揺れた。
ネクタイを通して自分の姿勢が伝わっていたことに気づき、これまでの努力が報われたように感じたのだ。
やがて二人は結婚し、新しい生活を始めた。
結婚式の日、白いシャツに淡いグレーのスーツを着て、彼女に選んでもらったワインレッドのネクタイを結んだ。
鏡の前で結び目を整えるとき、彼女が後ろからそっと肩に触れ、「似合ってるよ」と囁いた。
その言葉は、どんな高価な宝石よりも心を満たす贈り物だった。
そして現在。朝、妻に急かされながら家を出て、慌ただしく電車に揺られる日々。
それでもふとネクタイを見下ろすと、そこにこれまでの記憶や人とのつながりが染み込んでいるのを感じる。
ネクタイはただの布切れではない。
父の背中、青春の挑戦、出会いのきっかけ、そして今の幸せな家庭――そのすべてを結びつけてくれる「紐」なのだ。
電車が駅に到着し、佐藤は胸元を軽く整え直した。
結び目を指先でなぞると、不思議と心が落ち着く。
今日も仕事は山積みだろう。
しかしネクタイをきゅっと締め直すことで、また一歩を踏み出す力が湧いてくる。
人は時に、何気ないものに自分の歴史を託す。
佐藤にとって、それがネクタイだった。
結び目は時に乱れ、ほどけることもある。
だが、また結び直せばいい。
そうして繰り返しながら、彼はこれからも人生を歩んでいくのだろう。