路地裏の赤い手形

ホラー

その街には、誰もが知っているが口には出したがらない都市伝説があった。
駅前から少し離れた古い商店街の裏手、人気のない細い路地を真夜中に通ると、壁に赤い手形が浮かび上がるというのだ。
ただの落書きだろう、酔っぱらいがつけた手垢だろう。
そう笑い飛ばす人もいる。
だが本当に見てしまった者の証言は一致していた。
――その赤い手形は、触れた人間を離さない。

大学生の俊介は、その噂を半ば馬鹿にしながらも心の奥で引っかかっていた。
夏休みの夜、友人たちと怪談話をしているうちに「じゃあ確かめに行こう」という流れになった。
午前零時を回り、街は眠りに沈んでいた。
薄暗い街灯の下、三人は路地へと足を踏み入れる。
空気が急に冷えたように感じ、俊介は思わず腕をさすった。

商店街の裏は想像以上に静かで、時折どこからか水が滴る音だけが響いていた。
壁のコンクリートは黒ずみ、古いポスターが剥がれかけている。
息をひそめて進むと、先頭を歩いていた友人の真也が声を上げた。
「おい、見ろよ……!」

そこにあったのは、真っ赤な手形だった。
壁の中央に、べったりと染みついたように浮かんでいる。
塗料のようにも、血のようにも見えるそれは、不自然なほど鮮やかに輝いていた。
俊介の心臓は跳ね上がった。
だが同時に「都市伝説の正体を暴いてやる」という好奇心が勝った。
彼は半笑いを作りながら近づき、手を伸ばした。

その瞬間、手形がじわりと動いた。
赤が滲むように広がり、まるで生きているかのように俊介の手を掴んだのだ。
「うわっ!」
引き剥がそうともがくが、壁は冷たく湿っていて、掌が吸いつかれるように離れない。
背後で真也と恵理が叫んだ。
「俊介! 離れろ!」
「助けて!」

必死に腕を振り払ったとき、俊介の耳元に低い声が囁いた。
『――返せ』
ぞっとして振り向くが、そこには誰もいない。
ただ壁の奥から、無数の指が押し寄せるような感覚が伝わってくる。

どうにか引き剥がし、三人は一目散に路地を駆け抜けた。
背後から追ってくる気配はない。
だが俊介の手のひらには赤黒い痕が残り、じんじんと痛んでいた。

その夜から俊介の周りで奇妙なことが起こり始めた。
家の壁に、小さな赤い手形が浮かぶ。
電車の窓に、自分の手と重なるように赤い跡がつく。
夢の中では、暗い路地から無数の手が伸びてきて、彼を引きずり込もうとする。
やがて大学にも行けなくなり、部屋に閉じこもるようになった。

ある日、心配した真也と恵理が訪ねてみると、部屋は静まり返っていた。
窓もカーテンも閉ざされ、湿った匂いが漂う。
中に入ると、壁一面に赤い手形がびっしりと並んでいた。
その中央に、俊介の携帯と靴だけが残されていた。

それ以来、あの路地を通った者の中で、時折「壁から手が伸びてくるのを見た」という報告がある。
俊介の名前を出す者はいない。
ただ、赤い手形を見たら決して触れてはいけない。
そう語り継がれている。

街の片隅、今も誰かが囁く。
「返せって声、聞いたことあるか?」