木の温もりを伝える箸

面白い

山あいの小さな町に、古びた工房を構える箸職人・庄吉がいた。
年は七十を越え、白髪と深い皺が刻まれていたが、その眼差しは木を前にすると若者のように輝いた。

庄吉の箸は「手に馴染む」と評判で、遠くの都会からも注文が来るほどだった。
しかし彼は決して大量には作らない。
一膳一膳に心を込め、木目を確かめ、削り、磨き、漆を重ねる。
その繰り返しが彼の一日を満たしていた。

ある日、工房に若い青年が訪ねてきた。
名を悠斗といい、町の役場に勤めながら地元の伝統に関心を寄せる男だった。
「庄吉さん、どうしてそんなに箸にこだわるんですか? 今は安くて便利なものがいくらでもありますよ」
素朴な疑問に、庄吉は刃物を置き、にやりと笑った。
「箸はな、人と食をつなぐ橋だ。毎日手にするもんだからこそ、ぬくもりがいる。木の声を聞きながら削っていると、不思議とその人の暮らしが浮かんでくるんだよ」

悠斗はその言葉に心を動かされ、しばし工房に通うようになった。
庄吉は彼に木の選び方から教え始めた。
桜は硬く、口当たりがすっきりする。
ヒノキは軽やかで香りが残る。
黒檀は重厚だが、手に吸い付くような感触を持つ。
材ごとの個性を知ることは、人の個性を知ることに似ていた。

ある日、悠斗は庄吉の手元をじっと見て驚いた。
彼の指先は節くれ立ち、爪はすり減り、何度も火傷や切り傷を負った跡があった。
「こんなに傷だらけになってまで……」とつぶやくと、庄吉は笑って答えた。
「傷は木がくれた学びだよ。刃の角度を間違えば指を削る。漆を急げば火傷を負う。だけどそのたびに、木と人の呼吸を覚えるんだ」

やがて庄吉の工房に一つの依頼が舞い込む。
町の小学校の給食用に、子どもたちのための箸を作ってほしいというのだ。
大量の注文に庄吉は一瞬ためらった。
しかし悠斗が力強く言った。
「僕も手伝います。子どもたちに、木の温もりを伝えたいんです」

二人は夜遅くまで工房に灯りをともした。
細い小さな手に合わせ、軽く、滑りにくく仕上げる。
漆を控えめにして、口当たりをやわらかくする。
削り終えた箸を並べると、木目がまるで笑顔のように並んで見えた。

数週間後、完成した箸は学校に届けられた。
給食の時間、子どもたちは新しい箸を手に取り、嬉しそうにご飯を口へ運んだ。
「先生、この箸あったかい!」
「ごはんがもっとおいしい!」
その声を聞いた庄吉の目に、涙が浮かんだ。

帰り道、悠斗がそっと問いかけた。
「庄吉さん、これからも一緒に作り続けませんか?」
老人は少し黙って空を仰いだ。
秋の空に赤とんぼが舞っている。
「わしの指はもう長くは持たん。だが、おまえが続けてくれるなら、この町に木の声は残る」

それから年月が流れた。
庄吉は静かに工房を去り、悠斗がその後を継いだ。
彼の箸はまだ師匠の技に及ばなかったが、子どもから大人まで、多くの人の手に温もりを届けていた。