海の底の囁き

ホラー

夏の夜、港町の古い桟橋には、今でも誰も近づかない時間がある。
潮が一番満ちる丑三つ時。
海面は静まり返り、風ひとつ吹かないのに、底から「声」が湧き上がるというのだ。

大学生の悠真は、地元の友人からその噂を聞いた。
都市伝説の類だと笑い飛ばしたが、どうしても心に引っかかった。
夜の海に浮かぶ声、それは人のものなのか、あるいは——。

彼は夏休みの帰省中、録音機を片手に一人桟橋へ向かった。
港は観光客で賑わう昼間とは打って変わり、夜は闇に沈み、波止場の木板はぎしぎしと不気味に鳴った。

午前二時を回ると、海は鏡のように凪ぎ、町の灯りさえ届かなくなった。
悠真は桟橋の先に腰を下ろし、録音機を海へ向ける。
潮の香りと湿った木の匂いが鼻を刺す。

最初は何も聞こえなかった。
ただ遠くでカモメが鳴くだけ。
しかし十分ほど経ったころ、足元の海面から、かすかなざわめきが湧き上がった。

「……たすけて……」

思わず背筋が凍った。
声は一つではなく、幾つもの声が重なり合っている。
老若男女の判別もつかないほど、途切れ途切れで濁っている。
海中から泡のように浮かび、耳にまとわりついて離れない。

悠真は録音機を握りしめ、息を殺して耳を澄ます。
声は次第に鮮明になり、はっきりとした言葉を形作りはじめた。

「返せ……返せ……」

悠真はぞっとした。何を返せと言っているのか。
思わず桟橋から身を乗り出すと、闇の海面の下に人影が揺れていた。
ひとり、ふたり……やがて無数。
白く濁った顔が波間から覗き、空洞の目が悠真を見上げている。

「返せ……お前の息を……」

突然、冷たい水が足首を掴んだ。
見れば、海から伸びた手が悠真の足をしっかりと捕らえている。
必死に振りほどこうとするが、次々と別の手が伸びてきて、脚や腕に絡みつく。
桟橋の木板に爪を立て、悠真は喉を張り裂けんばかりに叫んだ。

次の瞬間、世界がぐるりと回転し、彼は闇の海に引きずり込まれた。

冷たい塩水が肺に押し寄せ、体は鉛のように重くなる。
目を開けると、海中は暗いはずなのに、ぼんやりと青白い光が揺れていた。
その中で、無数の顔が悠真を取り囲む。
どれも口を大きく開け、泡を吐きながら同じ言葉を繰り返す。

「返せ……息を返せ……」

その顔の中に、見覚えがあるものを見つけて悠真は凍りついた。
昨年、海難事故で行方不明になったはずの幼馴染、翔太だった。
蒼白に膨れた顔で、翔太は悠真にすがりつくように手を伸ばした。

「……お前が、俺を誘ったんだ……」

悠真は思い出した。
去年の夏、波が高いのに無理をしてボートを出そうと翔太をけしかけたのは自分だった。
事故のあと、自責の念を押し殺し、都合よく忘れていた記憶。

「返せ……俺の息を……」

翔太の手が悠真の胸に押し当てられると、心臓が急激に締め付けられた。
空気が泡となって口から溢れ、翔太の口へと吸い込まれていく。
悠真の肺は急速に空っぽになり、視界が狭まっていく。

最後に見たのは、翔太が安らかな顔で泡を吐きながら、
深海へ沈んでいく姿だった。

――翌朝。
港の漁師が桟橋の下で浮かぶ死体を見つけた。
口は大きく開き、恐怖ではなく、まるで何かを渡し終えたような、奇妙に安堵した表情を浮かべていたという。

その夜からまた、港では丑三つ時に「返せ、返せ」という声が聞こえるようになった。

今度は、悠真の声を混じえて。