古びた町の一角に、小さな囲碁教室があった。
看板も色褪せていて、初めて見る人はそこに人が集っているとは思わないだろう。
しかし、放課後になると子どもたちが駄菓子を片手に集まり、碁盤の上に石を打ち合う音が響いていた。
少年・悠斗は、ある日、友だちに誘われてその教室を訪れた。
畳の上に置かれた碁盤の木の香り、黒と白の石が碁笥の中で軽やかに響く音。
何も知らなかった悠斗の心は、その音に不思議と引き寄せられた。
最初はただルールを覚えるだけで必死だった。
黒石と白石が交互に置かれ、陣地を広げる。
ただそれだけの単純さに見えて、打つたびに世界が変わっていく。
石は黙っているのに、盤面の中では会話が繰り広げられているようだった。
「石の声を聴け。」
師匠である老棋士・高橋が、いつも口にしていた言葉だ。
六十を過ぎたその男は、目はやさしいが手は厳しい。
悠斗が一手でも気を抜けば、盤上は一瞬で白か黒に塗り替えられた。
けれど悠斗には不思議な感覚が芽生えていた。
石を指先でつまむと、心の奥にささやきが届くような気がする。
――こっちに置いてほしい。
――ここを守らなければ全てが崩れる。
それは錯覚かもしれなかったが、彼は確かに石の声を感じていた。
季節が巡り、悠斗は町の子ども大会に出場することになった。
対戦相手は同年代の子らだったが、皆経験豊富で油断できない。
緊張で手が震えそうになったとき、耳の奥で石の声が囁いた。
――落ち着け。盤を見よ。石を見よ。
悠斗は深呼吸し、一手一手を丁寧に打った。
相手が攻め込んでくるときも、焦らずに石の声に耳を澄ませる。
やがて盤面には小さな黒の陣地が広がり、相手の白石が取り残されていった。
結果は見事、初優勝だった。
だが本当の試練はその先にあった。
ある日、師匠が病で入院することになったのだ。
囲碁教室はしばらく閉じられ、子どもたちは集まる場所を失った。
悠斗は独り、家の小さな碁盤で石を並べた。
寂しさに心が沈み、石の声も聞こえなくなっていった。
そんなある晩、夢の中で師匠が現れた。
白い和服をまとい、碁盤を前にして言う。
「悠斗、お前は石に耳を澄ますことができる。だが大切なのは勝ち負けではない。石が繋がり、人と人とを結ぶ。その意味を忘れるな。」
目覚めた悠斗は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
翌日から彼は友だちを誘い、自分の部屋で小さな碁会を開いた。
笑い声が響き、石を打つ音が重なると、再び石の声が蘇った。
やがて師匠が退院し、教室に戻ってきたとき、そこには以前よりも賑やかな光景があった。
悠斗を中心に、子どもたちが自分たちで囲碁を楽しみ、学び合っていたのだ。
高橋は目を細め、盤を前にした悠斗に一言だけ告げた。
「よくやったな。お前はもう、石の声を自分のものにしている。」
悠斗は照れくさそうに笑った。
盤上には黒と白の石が交わり、まるで小さな宇宙のように広がっていた。
そこには、勝ち負けを超えたつながりと、果てしない物語が息づいていた。