せんべい屋の灯

食べ物

町のはずれに、小さなせんべい屋がある。
古びた木の引き戸を開けると、香ばしい醤油の香りが鼻をくすぐり、客の足を自然と止める。
看板には墨文字で「松風堂」とある。
主人の松田寅吉は七十を越えたが、今も毎朝、夜明け前に窯に火を入れ、手を止めることはない。

「機械に任せりゃ楽なんだがなあ」
そう笑って言うが、寅吉のせんべいは一枚一枚、炭火で焼き上げるのが信条だった。
香りも、焦げ目も、微妙なひび割れの美しさも、手でしか出せないと知っているからだ。

町の子どもたちは小遣いを握りしめて「一枚ちょうだい!」と駆け込み、老人たちはお茶請けにと袋を下げて帰る。
決して派手ではないが、松風堂は人々の暮らしの中に根付いていた。

ある日、東京から戻ってきた寅吉の孫娘、亜希が店を訪ねてきた。
都会で働いていたが、心がすり減り、ふと思い立って故郷に戻ったのだ。

「じいちゃん、まだこんなに焼いてるの?」
「こんな、だと? せんべいはな、毎日焼くもんだ。焼かなきゃ松風堂は死んじまう」

亜希はしばらく店を手伝うことにした。
最初は湯気と煙にむせながら、炭火の前に立つのも大変だったが、祖父の手さばきを見て少しずつ覚えていった。

一方で町には大型スーパーが進出し、安くて種類豊富な菓子が並び始めていた。
「昔ながらのせんべい屋はもう古い」と言う声も聞こえる。
亜希は心配になり、祖父に相談した。

「このままじゃ、お客さん減っちゃうよ。もっとおしゃれなパッケージにしたり、SNSで宣伝したらどうかな」
「ふむ、わしにはよく分からんが……。だがな、せんべいは口に入れて初めて分かるもんだ。見た目で誤魔化すのは嫌いだ」

祖父の頑固さに歯がゆさを感じながらも、亜希は考えた。
せんべいの良さをもっと多くの人に知ってもらう方法はないかと。
そこで彼女は、町の祭りの日に「せんべい焼き体験」の屋台を出すことを提案した。

「焼きたてをその場で食べてもらおうよ。自分で焼いたら、きっと味も忘れないから」

寅吉は渋い顔をしたが、孫の真剣な眼差しに押されて承諾した。
祭りの日、炭火を囲んで子どもも大人もせんべいを焼いた。
醤油を塗る手が震えたり、真っ黒に焦がしたり、それでも焼きたてを口に入れると皆が笑顔になった。

「熱っ!でもうまい!」
「昔、おばあちゃんと食べた味だ」

屋台は大盛況となり、松風堂の名も再び広まった。

その夜、片付けを終えた寅吉は静かに言った。
「亜希、お前が帰ってきてくれてよかった。わし一人じゃ、松風堂は時代に取り残されてたかもしれん」
「でも、じいちゃんのせんべいがあるからこそだよ。私、もっと覚えたい。いつか一緒に松風堂を続けたい」

寅吉は目を細め、夜空を見上げた。
煙の向こうに星が瞬いている。
炭火の赤はまだ消えていない。

町の片隅、小さなせんべい屋の灯は、これからも人々の暮らしを温め続けるだろう。