直樹が初めてペスカトーレを口にしたのは、大学二年の夏だった。
友人に誘われて入った小さなイタリアンレストラン。
木の扉を押し開けると、にんにくとオリーブオイルが熱された香りが鼻を突き抜け、奥の席から賑やかな笑い声が響いてきた。
メニューを眺めながら、ふと目に止まった「ペスカトーレ」という文字。
魚介類をトマトソースで煮込み、パスタと和えた料理だと説明に書いてあった。
普段は無難にカルボナーラを頼む直樹だったが、そのときは妙に赤いソースが気になった。
運ばれてきた皿には、ムール貝やアサリ、エビが殻ごと盛られ、トマトの赤に映えている。
フォークで麺を巻き、ひと口運ぶと、磯の香りとトマトの酸味が一気に広がった。
濃厚なのにしつこくなく、海のうまみが口いっぱいに染みわたる。
直樹は思わず声を漏らした。
「……うまい」
それ以来、彼の心の奥に「ペスカトーレ」という名はしっかり刻まれた。
卒業後、直樹は広告代理店に就職し、忙しさに追われる日々を過ごした。
徹夜で資料を作る夜も多く、まともな食事を取る余裕すらない。
コンビニ弁当を片手にパソコンと向き合い、気づけば空が白み始めている。
そんな日々の中でも、月に一度だけ、自分にご褒美を与えた。
会社近くの小さなイタリアンで、必ず頼むのはペスカトーレ。
熱々の皿から立ちのぼる香りに包まれると、不思議と心が落ち着いた。
あの大学時代の一皿が、まだ自分を支えてくれている気がした。
しかしある冬の夜、上司に叱責された帰り道、直樹はふと思った。
「このままでいいのか……?」
夢中で働いているつもりだったが、心はすり減り、ただ過ぎゆく日々に流されているだけではないか。
その帰り道、無意識のうちにあのイタリアンへ足が向いていた。
カウンターに座り、いつものようにペスカトーレを頼む。
店主が鍋でソースを煮詰め、白ワインを注ぐ音が聞こえる。
やがて運ばれてきた一皿。
トマトの赤がやけに鮮烈で、直樹は箸ではなくフォークを強く握った。
ひと口食べた瞬間、胸の奥から涙がこぼれそうになった。
——やっぱり、この味だ。
ただ生きるだけでなく、自分も何かをつくりたい。
人の心に残るものを届けたい。
そう強く思わせてくれる味だった。
数年後。
直樹は思い切って会社を辞め、料理の道へ進んだ。
周囲には驚かれ、反対もされたが、迷いはなかった。
あの赤いソースが、自分を新しい未来へ導いてくれると信じていたからだ。
修行は厳しかった。
包丁の扱い、火加減、ソースの仕上げ、何度も失敗しては叱られた。
だが、直樹の心は折れなかった。
閉店後、深夜まで残り、トマトを煮込み続けた。
魚介のだしを取っては試し、失敗してはまた挑戦した。
やがて十年が過ぎ、彼は自分の店を持つことになった。
白い壁に木の温もりを感じる小さなレストラン。
オープン初日のメニューの中央には、大きく「ペスカトーレ」と記した。
夜、最初の客が来た。
若いカップルがメニューをめくり、彼と同じように「ペスカトーレって何?」と首をかしげている。
直樹は笑顔で答えた。
「魚介のうまみとトマトのソースが絡んだ、ちょっと特別なパスタですよ」
鍋の中でトマトが踊り、エビや貝が香りを放つ。
皿に盛り付けると、あの大学時代に出会った光景と重なった。
客が一口食べて、顔を輝かせる。
その瞬間、直樹の胸は熱くなった。
——この一皿が、誰かの人生の記憶に残るかもしれない。
自分がそうであったように。
赤いペスカトーレの湯気の向こうに、直樹は確かに未来を見ていた。