匂いが漂ってきただけで、心が躍る。
鉄板に落とされた分厚い肉が「ジュウ」と音を立て、立ちのぼる煙とともに香ばしい匂いを放つ瞬間――そのすべてが、佐伯健一にとっては至福の時間だった。
健一は幼い頃から肉が大好きだった。
特に父が給料日に奮発して買ってきてくれたステーキの記憶は、彼の人生に深く刻まれている。
鉄板の上で赤身が弾け、父が得意げに「今日は特別だぞ」と笑う顔。
その食卓が彼にとっての幸福の象徴だった。
大人になってからも、健一はあちこちの店でステーキを食べ歩いた。
脂ののったサーロイン、旨味が凝縮されたヒレ、ワイルドに噛みごたえのあるランプ。
どれも違った魅力を持ち、飽きることはない。
彼は出張のたびに必ずその土地のステーキハウスを探し、旅の思い出を「肉」で刻んでいった。
そんなある日、健一は一軒の古びた洋食店に出会う。
商店街の端にある小さな店「ビフテキハウス松原」。
外観は年季が入っていて、通り過ぎれば見落としてしまいそうだった。
だが、扉を開けるとふわりと漂う肉の香りに引き寄せられた。
カウンターに座り、彼は迷わず「ステーキセット」を注文した。
目の前の鉄板で店主が丁寧に焼き上げる様子は、無駄がなく美しい。
ナイフを入れると、ほんのり赤みを残した断面があらわれ、口に入れれば柔らかさと旨味が舌に広がった。
その味わいは、派手さはないのに、心を打つものがあった。
「どうです?」と白髪交じりの店主が声をかけてくる。
「……うまいです。すごく丁寧な味がします」
健一の答えに、店主は目を細めて笑った。
それから健一は、暇を見つけてはその店に通うようになった。
何度食べても飽きない深い味わいに惹かれ、気づけば店主と会話を交わすのも楽しみになっていた。
ある夜、店が空いている時に店主はぽつりと話した。
「実は、この店も長くは続けられそうにないんですよ。年もとったし、跡継ぎもいない。惜しまれながら閉めるのが一番かなと思ってね」
健一は衝撃を受けた。
こんなに美味しいステーキを出す店がなくなってしまうなんて、あまりに惜しい。
だが彼には料理人としての経験もない。
ただのサラリーマンに過ぎない。
どうすることもできない――はずだった。
けれど、その夜健一は眠れなかった。
父と食べたステーキの思い出、自分の人生を彩ってきた肉の数々、そして松原のステーキの味。
すべてが頭の中で結びつき、心を揺さぶった。
翌週、健一は店主に思い切って言った。
「もしよかったら、僕にこの味を教えてくれませんか」
突然の申し出に店主は驚き、そして呆れたように笑った。
「料理の経験は?」
「ほとんどありません。ただ、ステーキが好きで……この味を残したいんです」
最初は冗談だと思われたが、健一の真剣な眼差しに店主は心を動かされた。
「じゃあ、覚悟はありますか?」と問われ、健一は力強く頷いた。
それからの日々は厳しかった。
火加減、塩の振り方、肉の選び方。
ほんのわずかな違いが味に大きな影響を与える。
失敗しては何度もやり直し、舌と感覚で学んでいく。
サラリーマンの仕事を終えた後に店へ通い、深夜まで練習を重ねる生活は過酷だったが、不思議と苦にならなかった。
数年後、店主は静かに店を譲った。
引退の日、彼は健一に向かって言った。
「君みたいにステーキを愛している人間なら、この店を託してもいいと思った」
健一は胸がいっぱいになった。
その瞬間、幼い頃の父の笑顔と「今日は特別だぞ」という声が蘇った。
あの時の幸せを、自分もまた誰かに届けられるのだ。
今、「ビフテキハウス松原」は新しい客で賑わっている。
カウンターの向こうで鉄板を操るのは、かつてステーキを食べ歩いていた一人のサラリーマン――いや、今は一人の料理人だ。
健一は今日も鉄板の前で、心を込めて肉を焼く。
あの日父が教えてくれた「特別な時間」を、多くの人に味わってもらうために。