山脈のさらに奥深く、雲より高い峰の影に「蒼き鱗のドラゴン」が棲んでいた。
村人たちはその存在を古くから語り継ぎ、恐れと畏敬の念を抱いていた。
火を吐けば森を焼き尽くし、翼を広げれば嵐を呼ぶ――そう言われてきたが、実際にその姿を見た者は少ない。
ただ一つ確かなのは、百年に一度、谷を覆う雪解けを静かに見守るということだった。
その年、谷の村は大きな危機に見舞われていた。
長い干ばつと凶作により、穀物の蓄えは底をつき、家畜も痩せ衰えていた。
人々は「もう冬を越せない」と肩を落とした。
そんな時、若い村娘リナが立ち上がった。
彼女は幼い頃から山の向こうに憧れを抱き、蒼きドラゴンに会う夢を語っては笑われていた。
だが今は笑い事ではない。
村を救う術はもはや伝承の力に縋るしかなかった。
「私が行きます。ドラゴンに願いを伝えます」
家族も村人も止めたが、リナの決意は揺るがなかった。
彼女は小さな背嚢にわずかな干し肉と水を詰め、雪道を踏みしめながら山へ向かった。
登るにつれ、風は冷たく、息は白く凍った。
夜になると星がきらめき、山肌を蒼白に照らした。
三日目の朝、彼女はとうとう巨大な洞窟に辿り着いた。
その入口からは青白い光が漏れ出し、内部には岩肌に反射して淡く輝いていた。
やがて、低い唸り声とともに、巨体が姿を現した。
蒼き鱗のドラゴン――伝承よりもはるかに美しく、恐ろしく、そして威厳に満ちていた。
翼は畳んだままでも山の壁に届き、瞳は氷のように澄んでいた。
「人の子よ、なぜここに来た」
声は轟音のようでありながら、不思議と心に直接響いた。
リナは震える膝を押さえ、勇気を振り絞った。
「どうか村を救ってください。干ばつで作物が枯れ、食べる物がなくなりました」
ドラゴンはしばし黙し、冷たい瞳で少女を見つめた。
「人はいつも求めるばかりだ。欲を満たし、森を伐り、川を汚す。その末に苦しみ、また私に縋る」
リナは俯いた。
たしかに村人たちは森を焼き畑に変え、川魚を取り尽くした。
だが、それでも――。
「私は、変えたいのです。村の人たちに自然と生きる方法を伝えたい。だからどうか、最後の機会をください」
その言葉に、ドラゴンの瞳が微かに揺れた。
長い沈黙ののち、彼は山を震わせるほどの息を吐いた。
「よかろう。だが代償は必要だ。お前自身が村を導くのだ。私が与えるのは一時の雨と肥沃な土、それをどう生かすかはお前次第だ」
リナは深く頭を垂れた。
その瞬間、ドラゴンは翼を広げ、天空へ舞い上がった。
雷雲が集まり、谷に大雨が降り注いだ。
乾いた大地は潤い、枯れた田畑は息を吹き返した。
人々は驚きと歓喜の声を上げた。
しかしリナは知っていた。
これは奇跡ではなく、約束の始まりだということを。
彼女は村人に訴えた。
「これからは山を削らず、川を汚さず、自然と共に生きましょう。ドラゴンが与えてくれた恵みを無駄にしてはいけません」
最初は半信半疑だった村人たちも、豊かに実った穂を見て耳を傾けた。
やがて村は少しずつ変わっていった。
それから数十年。
リナは村を導き続け、いつしか「蒼き鱗の巫女」と呼ばれるようになった。
死の間際、彼女は空を仰いだ。
雲間に一瞬、蒼い鱗が光を反射したように見えた。
ドラゴンは約束を果たしたのだ。
そしてリナもまた、自らの誓いを守り続けたのだった。