アーモンドの記憶

食べ物

健一がアーモンドという食べ物に心を奪われたのは、小学生の頃に祖母の家で食べた一粒がきっかけだった。
その日、夏休みの宿題を広げたちゃぶ台の上に、祖母が小さなガラス瓶を置いた。
中には飴玉のように見える丸い茶色の実がぎっしり詰まっている。

「これはね、アーモンドっていうんだよ。体にもいいし、噛むと香ばしいの」
祖母がそう言って一粒渡してくれた。
口に入れた瞬間、ほんのり甘く、ナッツ特有の香りがふわりと広がる。
硬い歯ごたえが楽しく、噛めば噛むほど旨味が染み出してくるようだった。
それまで駄菓子屋のお菓子ばかり食べていた健一にとって、それは新しい世界を知る味だった。

以来、健一はアーモンドが大好きになった。
給食に出てくるアーモンドフィッシュは友達が残した分まで引き受け、遠足のお菓子はチョコレートアーモンドばかり選んだ。
大学生になってからもコンビニで素焼きアーモンドを欠かさず買い、就職してからはデスクの引き出しに常備するほどだった。

だが、健一の「アーモンド好き」は単なる嗜好を超えて、生活の一部になっていく。
仕事で疲れたとき、上司に叱られて落ち込んだとき、ポケットから一粒つまんで口に放り込む。
カリッと砕ける音に気持ちが整い、香ばしさが心を慰めてくれる。
まるで小さな守り神のようだった。

そんな健一を見て、同僚たちは冗談混じりに「ナッツ男」と呼んだ。
だが彼は気にしない。むしろ誇らしく思っていた。

ある日、健一は取引先との商談で大きなミスをしてしまった。
資料の数字に誤りがあり、契約寸前まで進んでいた案件が白紙に戻ってしまったのだ。
上司に叱責され、同僚からも冷たい視線を浴び、彼は自分を責め続けた。
夜、自宅の机に突っ伏して、無意識にアーモンドの袋を開ける。
だが、その日だけは味がしなかった。
香ばしさも甘みも感じられず、ただ空虚な音が耳に残る。

「俺、アーモンドを楽しむ資格なんてないのかな」

そんな弱音を吐いたとき、ふと祖母の声がよみがえる。
「噛めば噛むほど味が出るのさ。すぐに分からなくても、ちゃんと口いっぱいに広がるんだよ」

それはアーモンドのことを教えてくれたあの日の言葉だった。
健一は涙ぐみながら、ゆっくりともう一粒を口に含む。
噛み締めるたび、苦みと甘みが重なって、ようやくあの懐かしい味が戻ってきた。
そうか、人生も同じなのだろう。
苦い失敗も、噛み砕けば自分の糧になる。

翌日、健一は出社すると、謝罪のために先方を訪ねた。
失敗を認め、誠意を尽くして頭を下げる。
すると意外にも先方の担当者は微笑んだ。
「正直に話してくれてありがとう。実は、御社と一緒にやりたい気持ちは変わってないんです。もう一度提案してもらえませんか」

その瞬間、健一の胸に温かなものが広がった。
帰り道、カフェに立ち寄って頼んだのは、迷わずアーモンドラテだった。
カップから漂う甘い香りに、彼は未来への希望を重ねる。

数か月後、契約は無事に成立し、プロジェクトは社内でも大成功を収めた。
祝賀会の席で上司が笑いながら言った。
「やっぱり“ナッツ男”は侮れないな」

健一はグラスを掲げて答えた。
「はい。これからも噛み砕いて、味わっていきます」

その夜、帰宅して一人になったとき、机の上の瓶にアーモンドを補充した。
祖母から受け継いだ記憶と、自分を支えてきた習慣の象徴として。
一粒一粒を指先で撫でながら、彼は心の中で呟く。

――これからも、俺はアーモンドと一緒に歩いていく。