大地は、子どもの頃から「磨く」という行為が好きだった。
絵筆で机に落書きをしては布で拭き、錆びかけた自転車のハンドルを磨き、曇ったガラスをこすっては「きれいになった」と満足げに笑っていた。
そんな彼がいちばん夢中になったのが、歯ブラシだった。
小学一年生のころ、学校で虫歯予防デーの授業があり、担任が「歯を磨くことは、自分の体を守ることなんだよ」と話した。
みんなが面倒くさそうに聞き流す中、大地だけが真剣にうなずいた。
家に帰ると、母が買ってきたキャラクター付きの歯ブラシを握りしめて、鏡の前で熱心に磨きはじめた。
その瞬間から、大地にとって歯ブラシはただの道具ではなく、「毎日の相棒」になったのだ。
成長するにつれ、彼のこだわりは深まっていった。
ドラッグストアに行けば、並ぶ歯ブラシのコーナーで立ち止まり、毛先の硬さや柄の形を一本一本比べては、まるで宝石を選ぶかのように吟味する。
友人から「そんなに違うの?」と笑われても、大地は真顔で「全然違うんだ。一本ごとに性格がある」と語った。
大学生になると、彼の部屋には十数本の歯ブラシが立てられた専用のケースが並んでいた。
朝は毛先が柔らかいもの、昼は小さなヘッドのもの、夜は奥歯に届きやすいカーブのあるもの。
使い分けるたびに「よし、今日も磨けた」と胸の奥に小さな充実感が灯った。
だが、周囲の理解は簡単ではなかった。
サークルの飲み会で、彼が鞄からマイ歯ブラシを取り出してトイレに駆け込むと、仲間から冷やかされた。
「大地ってさ、潔癖症?」。
彼は笑ってごまかしたが、内心では「これは潔癖なんかじゃない。好きなんだ」と言いたかった。
そんな彼に転機が訪れたのは、就職活動のときだった。
何気なく訪れた合同説明会で「オーラルケア製品を専門に開発しています」というブースを見つけた。
説明員が新素材のブラシ毛や歯茎に優しい設計について熱く語るのを聞き、大地の心は強く揺さぶられた。
「ここだ。自分の好きが仕事になるかもしれない」。
やがて彼はその会社に入社し、研究開発部に配属された。
先輩たちに囲まれながら、歯ブラシの毛先の角度を何度も調整し、試作品を何十本も磨き比べる日々。
大地にとってそれは天職だった。
好きだからこそ細部にこだわり、ユーザーの声を大切にする姿勢は、やがて上司からも信頼を得るようになった。
あるとき、彼は子ども用歯ブラシの新企画を任された。
「歯磨きが嫌いな子でも楽しく続けられる歯ブラシをつくりたい」。
大地は自分の幼い日の姿を思い出した。
磨く楽しさに目を輝かせていたあの気持ちを、次の世代に伝えたい――。
そう考え、キャラクターのデザインだけでなく、子どもの小さな手でも持ちやすいグリップや、仕上げ磨きをする親の使いやすさまで工夫を凝らした。
数か月後、その歯ブラシは発売され、予想を超える反響を呼んだ。
SNSには「うちの子が初めて歯磨きを嫌がらなくなった!」という声が並び、大地は胸がいっぱいになった。
「自分の好きが、誰かの笑顔につながったんだ」と実感した瞬間だった。
今も大地の机には、試作品やお気に入りの歯ブラシがずらりと並んでいる。
夜、作業を終えて一本を手に取り、鏡の前で磨きながら思う。
「歯ブラシは、ただの道具じゃない。毎日の暮らしを支えてくれる小さなパートナーだ」。
その笑みは、子どもの頃と変わらぬ純粋さで輝いていた。