朝の光が差し込むキッチンの窓辺には、小さな瓶がいくつも並んでいた。
ラベルには「夏の思い出」「森の香り」「おばあちゃんの味」と手書きされている。
すべて、ブルーベリージャムの瓶だ。
美香はその中からひとつを選び、トーストに塗った。甘酸っぱい香りがふわりと広がり、朝の空気に溶け込む。
口に運ぶと、懐かしい記憶がよみがえってくる。
彼女がブルーベリージャムを好きになったのは、小学生の頃だった。
夏休みに毎年訪れていた祖母の家。
裏庭には小さな畑と、少し歩いた先には森が広がっていた。
その森にはブルーベリーの低木が群生していて、祖母と一緒に摘み取りに行くのが美香の楽しみだった。
紫色の指先を見せ合いながら、二人で笑い合った時間。
祖母は収穫した実を丁寧に煮詰めて、甘さ控えめのジャムを作った。
瓶に詰めては冷暗所に並べ、食卓に出す。
祖母はよく言った。
「ジャムはね、時間を閉じ込める魔法みたいなものなのよ」
その言葉の意味を、美香は大人になってから少しずつ理解していった。
***
大学を卒業して就職した美香は、忙しい日々の中で祖母の家へ行くことも減ってしまった。
電話で話すことはあっても、森での摘み取りや台所での手仕事は遠い思い出になりつつあった。
そんなある日、祖母が体を壊したと聞き、急いで駆けつけた。
祖母はもう畑にも森にも出られないと言ったが、それでも笑顔を浮かべていた。
棚には、まだいくつかのブルーベリージャムの瓶が並んでいた。
祖母はその一つを差し出し、
「これが最後のジャムかもしれないから、大事に食べてね」
と、静かに言った。
美香は喉の奥が熱くなるのをこらえながら、その瓶を抱きしめた。
***
祖母が亡くなった後、美香はしばらくジャムを食べられなかった。
瓶を開けることが、過去を終わらせてしまうようで怖かったのだ。
だがある朝、机に残された祖母の手書きのレシピノートを見つけた。
表紙には「ジャム作りのきろく」と書かれている。
そこには、煮詰める時間や砂糖の分量だけでなく、「弱火で歌を口ずさむとおいしくなる」「瓶は心を込めて拭く」といった祖母らしい言葉が並んでいた。
ページをめくるうちに、美香の胸の中で小さな決意が芽生えた。
――自分で作ってみよう。
休日、美香はスーパーでブルーベリーを買い、祖母のノートを開いて台所に立った。
鍋の中で果実がじゅわりと崩れ、紫の色が広がっていく。
甘酸っぱい香りに包まれた瞬間、幼い頃の森の風景が鮮やかによみがえった。
指先を紫に染めて笑い合う自分と祖母。
煮詰め終わったジャムを瓶に詰め、蓋を閉めたとき、美香は気づいた。
――これは確かに時間を閉じ込める魔法だ。
祖母との記憶も、自分の新しい日々も、すべてこの瓶の中に生きている。
***
それから美香は、毎年夏になるとブルーベリーを買い、ジャムを仕込むようになった。
仕事で疲れていても、台所で果実を煮詰めると心が落ち着く。
出来上がった瓶には、祖母と同じように手書きのラベルを貼る。
時には「がんばった日」「雨の午後」など、その年の気分や出来事を書き込むこともあった。
ある年の秋、美香は近所の子どもたちを自宅に招き、ジャム作りを一緒に体験させた。
小さな手でブルーベリーを洗い、鍋をかき混ぜる子どもたちの笑顔を見ていると、祖母と過ごした時間がそのまま未来へつながっていくように感じられた。
ジャムをパンに塗って味わった子どもたちが「おいしい!」と声をあげると、美香は心から嬉しくなった。
祖母が自分にしてくれたことを、今度は自分が誰かに渡していけるのだと思えたからだ。
***
今日も、美香の朝はブルーベリージャムから始まる。
瓶のラベルには「新しい一歩」と書かれていた。
パンに塗りながら、彼女はこれから始まる日々を想った。
ブルーベリージャムは、ただの甘酸っぱい保存食ではない。
祖母の思い出であり、自分の物語であり、未来への贈り物でもある。
口いっぱいに広がるその味は、いつまでも美香の心を支えていくのだった。