三分の一の幸せ

面白い

木村尚人は、自分でも「少し変わっている」と思うほど、枕にこだわりを持っていた。
きっかけは十年前、社会人一年目の春だった。
慣れない仕事に追われ、毎晩のように残業をしていた尚人は、帰宅してもなかなか眠れず、眠れたとしても朝には肩や首が強張っていて、疲れが取れなかった。
そんなある夜、何気なく立ち寄った寝具店で出会ったのが、ひとつの羽根枕だった。
「これで眠れたらいいな」と、半ば衝動で買ったその枕に頭を沈めた瞬間、不思議なくらい体が解けるように楽になり、翌朝はすっきり目覚められた。
以来、尚人にとって枕はただの寝具ではなく、自分の一日を決定づける大切な相棒となった。

それからの彼のこだわりは、年を重ねるごとに深まっていった。
柔らかすぎると首が痛くなる。
硬すぎても頭が落ち着かない。
高さは数センチの違いで眠りの質が左右される。
素材にしても羽根、低反発、そば殻、ラテックスと、あらゆる種類を試した。
旅行に出かけるときは必ず自分専用の枕をスーツケースに詰め込む。
出張先のホテルで同僚に「なんだそれ?」と笑われても、尚人は気にしなかった。
翌朝、爽快な目覚めで会議に臨めることの方が、よほど大切だからだ。

ある年の夏、尚人は転機を迎える。
近所に新しくオープンした「枕専門店」という看板を見つけたのだ。
吸い寄せられるように足を踏み入れると、そこには様々な形状と素材の枕が並び、店主の女性が「寝姿勢診断」を行ってくれるという。尚人は迷わず申し込んだ。
機械で背骨の角度を測定し、肩幅や首の長さを確認し、彼専用の枕が作られていく過程はまるでオーダーメイドの靴のようだった。
その出来上がった枕に寝転んだ瞬間、尚人は胸が震えるほどの感動を覚えた。
「これが、俺の眠りのための枕か……」と。

それからというもの、尚人の生活は大きく変わった。
睡眠の質が安定し、仕事でも集中力が増した。
休日は自然と朝早く目覚め、散歩や趣味に時間を費やせるようになった。
人付き合いも明るくなり、同僚からも「最近、顔色いいね」と声をかけられるほどだった。

やがて尚人は、単なる消費者として枕を楽しむだけでなく、その奥深さを伝えたいと考えるようになった。
寝具に無頓着な人ほど疲労を抱えていることを実感していたからだ。
SNSで枕のレビューを始めると、意外にもフォロワーが増えていき、「おすすめの枕を教えてください」という声が寄せられるようになった。
尚人は真剣に返答し、素材や高さ、寝返りのしやすさまで細かく解説した。

そのうち、相談を受けた人たちが「おかげでぐっすり眠れた」「肩こりが楽になった」と感謝のメッセージを送ってくれるようになった。
尚人は胸が熱くなった。
自分のこだわりが、誰かの生活を少しでも良くできるのだと実感した瞬間だった。

そんなある日、彼のもとに一通のメッセージが届いた。
――「父が長年、不眠で悩んでいます。もしよければ、一緒に枕を選んでいただけませんか?」
依頼主は、かつての同僚の娘だった。
尚人は快諾し、店でその父親に合う枕を一緒に探した。
数週間後、「父が夜ぐっすり眠れるようになり、表情が柔らかくなりました」とお礼の言葉が届いた。
尚人は、ただ自分のためだけに追い求めてきた枕が、他人の人生にも影響を与えられるのだと知った。

その経験が背中を押し、尚人はついに小さな枕専門のブログを立ち上げ、やがてワークショップを開くまでになった。
参加者に実際に枕を試してもらい、一人ひとりに合う高さや硬さを提案する。
最初は数人だった参加者も、口コミで徐々に増え、今では休日のたびに予約が埋まるほどだ。

尚人は言う。
「人生の三分の一は眠りに費やされる。だからこそ、枕は決して軽んじられない」。
かつて、ただの「こだわり」と笑われたものが、今では人を笑顔にする力となっていた。

夜、尚人は愛用のオーダーメイド枕に頭を沈めながら、静かに目を閉じる。
眠りの心地よさが、また新しい一日を導いてくれることを確信しながら。