小さな商店街の一角に、古びた青い屋根の建物があった。
そこには「パティスリー・エトワール」という洋菓子店があり、看板商品は濃厚なチーズタルトだった。
店を営むのは、四十代半ばの女性、三枝(さえぐさ)玲子。
夫を早くに亡くし、一人娘の美咲を育てながら、店を切り盛りしてきた。
玲子の作るチーズタルトは、ふわりと香るバニラと、ほんのり焦げた表面の香ばしさが特徴で、口に入れるととろけるような食感が広がる。
それを目当てに、遠方から足を運ぶ客もいた。
だが、ここ数年は状況が変わっていた。
大手チェーン店の進出で、客足は目に見えて減っていたのだ。
玲子は「それでも、この味を守っていきたい」と思いながらも、経営の苦しさを痛感していた。
そんなある日、高校生になった美咲が、放課後に店にやってきて言った。
「ねえお母さん、私ね、学校で友達にお母さんのチーズタルトを食べてもらったの。そしたら、すっごく美味しいって感動してくれて……。もっとたくさんの人に食べてもらえたらいいのに、って思った」
玲子は苦笑いした。「ありがとう。でも、もう昔みたいに簡単じゃないのよ。宣伝するにもお金がかかるしね」
だが、美咲は首を振った。
「今はSNSがあるじゃない。お金をかけなくても、工夫すれば広められるよ」
美咲はスマートフォンを取り出し、チーズタルトの写真を撮りはじめた。
光の当たり方を工夫し、断面がとろける瞬間を動画に収め、少しずつSNSに投稿していった。
玲子は最初、娘の熱心さを頼もしく思いながらも、「そんなことで本当に人が来るのかしら」と半信半疑だった。
ところが、一週間も経たないうちに、投稿が広まり始めた。
「こんなチーズタルト見たことない!」「近所に行ったら絶対寄りたい」といったコメントが相次ぎ、フォロワーは日に日に増えていった。
やがて、休日には店の前に行列ができるほどになった。
久しぶりの繁盛に玲子は驚き、嬉しさと同時に、不思議な気持ちも抱いた。
「こんなにたくさんの人が、私のタルトを求めてくれているなんて……」
だが、繁盛すればするほど、不安も募っていった。
材料の仕入れ量は倍に膨らみ、仕込みの時間は深夜まで及んだ。
体力的に厳しい日が続き、ふとした瞬間に思った。
「こんなに頑張ってまで、この店を続ける意味はあるのだろうか」
その夜、玲子はふと、夫のことを思い出した。
亡くなる前、夫はよく言っていたのだ。
「玲子のタルトは、食べる人を幸せにする。だから絶対にやめるなよ」――その言葉を胸の奥で反芻しながら、涙が込み上げた。
翌日、店にやってきた常連の老夫婦が、玲子に声をかけた。
「このチーズタルトを食べるとね、若い頃の思い出がよみがえるんだよ。二人で初めて食べたスイーツがタルトでね。だから、あなたのおかげであの頃に戻れる気がするんです」
玲子はその言葉を聞いて、はっとした。
――そうだ、自分はただタルトを売っているんじゃない。
人の記憶や感情に寄り添う、小さな幸せを届けているんだ。
その日から、玲子は考えを改めた。
美咲とも相談し、店をただの洋菓子店ではなく、「記憶をつなぐ場所」として育てていこうと決めた。
タルトのレシピを大きく変えることはせず、季節ごとに小さな工夫を加える。
春は桜風味、夏はレモンを効かせた爽やかな味、秋は栗やかぼちゃを使い、冬はホットチョコレートと合わせて楽しめるようにした。
SNSでの発信は美咲が担当し、玲子は味と品質に集中した。
母娘で力を合わせるうちに、店の雰囲気も一層あたたかなものになっていった。
やがて一年が過ぎたころ、テレビ番組で「町の名物スイーツ」として取り上げられることになった。
放送の日、玲子と美咲は並んで画面を見つめた。
玲子は、インタビューで語った自分の言葉に胸を打たれた。
「私の作るチーズタルトは、大切な人と一緒に食べてほしいお菓子です。ひと口で笑顔になり、二口で思い出がよみがえり、三口目で未来の約束が生まれる――そんなタルトでありたいと思っています」
その瞬間、玲子は気づいた。
夫が残した言葉も、美咲の挑戦も、常連客の想いも、すべてはこのタルトに込められていたのだ。
小さな青い屋根の洋菓子店は、今日もチーズタルトの甘い香りに包まれている。
そこに訪れる人々は、それぞれの心に小さな幸せを持ち帰っていくのだった。