白い身の約束

食べ物

港町に暮らす拓真は、小さいころから魚が好きだった。
とくに、父がたまに釣ってきてくれるヒラメの刺身は、子ども心にも特別な味がした。
透き通るような白身に、かすかに光る縁取り。
口に入れると、歯ごたえは柔らかくも張りがあり、噛むごとにほのかな甘みが広がっていく。
小学生の頃、父はよく夜明け前に船を出し、朝食の時間に合わせて帰ってきた。
台所のまな板に並ぶヒラメを見て、拓真は歓声を上げる。
父は黙って包丁を走らせ、薄く薄く切った身を皿に並べていった。
ポン酢を垂らして食べると、頬がゆるむ。
あの味は、拓真のなかで「家の味」となった。

高校卒業後、拓真は東京へ進学した。
人も車もせわしなく行き交う街で、アルバイトや授業に追われる日々。
魚を食べることはあっても、あの港町で食べたヒラメの刺身のような味には、そうそう出会えなかった。
スーパーの切り身は、どこか水っぽく、甘みも淡い。
忙しさにかまけて、だんだん魚自体を食べる機会も減っていった。
それでも、年末に実家へ帰ると、父は必ずヒラメを釣ってきてくれた。
食卓に並ぶそれを見た瞬間、拓真の胸には、懐かしさと安心がじんわりと広がる。
東京での張りつめた気持ちが、すっとほどけていく気がした。

しかし、三年前の冬。
父は病で急に亡くなった。
港に面した家は母が守っていたが、船は売ることになった。
父が乗っていたあの小さな漁船がない港は、やけに広く感じられた。
葬儀のあと、母がぽつりと言った。
「お父さんのヒラメ、もう食べられないね」
拓真はうなずいたが、心の奥では、あの味をまた口にしたいという思いが消えなかった。

それから二年、東京での暮らしの中で、拓真はたびたび港町を思い出した。
疲れたとき、ふとあの白い身の光沢や、醤油皿に沈む一切れの美しさが脳裏に浮かぶ。
仕事で大きな失敗をした帰り道、ふと決意した。
――もう一度、あの味に会いに行こう、と。

翌週、拓真は夜行バスに揺られて港町へ帰った。
朝の港は、変わらぬ潮の匂いがした。
知り合いの漁師に頼み込み、船に乗せてもらう。
冬の海は冷たく、頬を刺す風が痛いほどだったが、不思議と心は落ち着いていた。
やがて、漁師が網を引き上げると、銀色の体をゆらめかせるヒラメが一匹、姿を現した。
拓真の胸が高鳴る。
これは、父がよく釣ってきた大きさとほとんど同じだ。

港に戻ると、拓真はそのヒラメを母に渡し、包丁を借りた。
父の姿を思い出しながら、ぎこちない手つきで捌いていく。
透明感のある白身が、まな板の上で少しだけ光を反射している。
薄造りにして皿に並べると、形は不格好だが、見慣れた風景がそこにあった。
母と向かい合い、二人で箸を伸ばす。
口に入れた瞬間、甘みが広がり、記憶の中の味と重なった。
「……お父さんのとは、ちょっと違うけど、美味しいよ」
母の言葉に、拓真は微笑んだ。
父の味はもう戻らない。
けれど、自分の手で作ったこの刺身にも、確かにあの港町の風が宿っていた。

食べ終えたあと、潮の香りを吸い込みながら港を歩いた。
波は静かで、遠くにカモメの声が響く。
拓真は心の中で、父に語りかけた。
――また作るよ、ヒラメの刺身。
お父さんの教えてくれた、あの味を。

それ以来、拓真は年に数回、港町に帰ってヒラメを捌くようになった。
東京では相変わらず忙しい日々だが、冷蔵庫にしまったヒラメの切り身を見るたび、胸の奥で潮の匂いがよみがえる。
そして、あの白い身が、父との繋がりをこれからも紡いでいくのだと信じていた。