春の空気がまだ冷たさを残す三月の初め、商店街の端に小さな暖簾がかかった。
白地に墨で「おはぎ日和」と書かれたその暖簾をくぐると、ふんわりと甘い香りが鼻をくすぐる。
店主の名は 山村里穂。三十五歳。
もともとは東京で事務職をしていたが、三年前に母を亡くしたことをきっかけに、実家のある地方へ戻ってきた。
母は生前、お彼岸や家族の集まりになると必ずおはぎを作ってくれた。
もち米の粒感、あんこの優しい甘さ、そして包み込むような温かさ――それは里穂にとって、母の存在そのものだった。
母が亡くなった後、実家の台所で一人おはぎを作ってみた。
何度も炊き加減を間違え、あんこは甘すぎたり水っぽくなったり。だが失敗を重ねるうち、母の作ってくれた味に少しずつ近づいていった。その過程で、里穂は自分がこの味を誰かに届けたいと強く思うようになった。
会社勤めをやめ、半年かけて商店街の空き店舗を借り、試作を重ねた。
あんこは北海道十勝産の小豆、砂糖はきび砂糖、もち米は地元農家の無農薬米を使用。
粒あんとこしあんの二種類を基本に、季節限定の味も考案した。
春は桜あん、夏は塩ずんだ、秋は栗あん、冬は黒ごまあん――カウンターには色とりどりのおはぎが並ぶ予定だった。
オープン当日。朝から炊き上げたもち米の湯気が店内を満たす。
「おはよう、里穂ちゃん」
近所の八百屋の店主が顔を出す。
「あんたの店ができるの、みんな楽しみにしてたんだよ」
その言葉に緊張していた里穂の肩が少し軽くなる。
最初に来たお客は、白髪の女性だった。
「お彼岸になるとね、うちの母がよく作ってくれたのよ。懐かしいわ」
その女性は粒あんと桜あんを一つずつ買い、店の隅の小さなイートインスペースに腰を下ろした。
口に運んだ瞬間、目を細め、しばらく何も言わずに味わっていた。
「……これ、優しい味ね」
それは里穂にとって何よりの褒め言葉だった。
昼を過ぎるころには、商店街の人や近所の子ども連れで店はにぎわい始めた。
小さな男の子が黒ごまあんを食べながら、「これ、おもちのアイスみたい!」と笑う。
そんな光景を見て、里穂は胸の奥が温かくなる。
閉店後、売れ残りはほとんどなかった。
片付けをしながら、ふと母の声が聞こえた気がする。
「おいしいって言ってもらえた? なら、大成功だね」
思わず「うん」と答えてしまい、ひとりで笑った。
それからの日々は、決して順風満帆ではなかった。
夏は暑さで客足が減り、冬は材料費が高騰した。
だが、常連になった年配の女性が孫を連れてきたり、遠方から口コミを頼りに訪れる人がいたり。
おはぎは、里穂と人々を確かに結びつけてくれた。
開店から一年後、春のお彼岸の日。
店先には桜の花びらが舞い、暖簾が揺れていた。
その日も、たくさんのおはぎが並ぶ。
粒あん、こしあん、桜あん。
そして新作の「抹茶あん」。
「お母さん、今年もたくさん作ったよ」
そう心の中でつぶやきながら、里穂は笑顔でお客を迎えた。
おはぎ日和は、今日も静かに、そして温かく、人々の心とお腹を満たしている。