その日、空は淡い水色にけぶり、春先の柔らかな風が庭を撫でていた。
美咲は小さな木のテーブルにティーポットを置き、カップに静かに注いだ。
湯気とともに、ふわりとラベンダーの香りが漂う。
紫色の小花を思わせるその香りは、どこか懐かしく、胸の奥の柔らかい場所をくすぐった。
「やっぱり、この香りは落ち着くなあ……」
彼女がラベンダーティーを飲み始めたのは、今から五年前のことだった。
当時、美咲は都会の出版社で働く編集者で、毎日深夜まで原稿に追われていた。
机の上は山積みの資料、メールは鳴り止まず、心も体もいつも張り詰めていた。
そんなある夜、ふと立ち寄った小さな喫茶店で、年配の女性店主が差し出してくれたのが、温かなラベンダーティーだった。
「眠れない夜には、これがいいのよ」
そう言って笑った店主の手は、少し冷たく、けれど温もりを含んでいた。
一口飲んだ瞬間、花の香りとほのかな甘みが舌の上に広がり、張り詰めていた心が少しだけ緩んだ。
その夜、美咲は久しぶりに深く眠れた。
やがて彼女は仕事の疲れと都会の喧騒に押しつぶされるように、会社を辞めた。
行き先も決めず、ただ「呼吸ができる場所へ」と願って訪れたのが、海と丘に囲まれたこの小さな町だった。
海からの風はやわらかく、丘の上には一面のラベンダー畑が広がっていた。
そこで出会ったのが、地元でハーブ農園を営む青年、直哉だった。
「よかったら、うちのラベンダーを使ってみませんか」
そう差し出された籠には、陽をたっぷり浴びた紫色の花が詰まっていた。
美咲はその香りを胸いっぱいに吸い込み、心の奥で何かがほどけていくのを感じた。
それからの生活は、まるで時間の流れがゆっくりになったようだった。
朝は鳥の声で目覚め、庭でハーブを摘み、午後はティーポットから漂う香りに包まれる。
夜は海の音を子守唄に眠る。
美咲は趣味だったお菓子作りとラベンダーティーを組み合わせ、小さな「お茶会」を開くようになった。
町の人たちや観光客が集まり、笑顔と香りが交わる時間。
そこで出会う物語は、一つひとつが宝石のように輝いていた。
ある日、直哉がふと口にした。
「ラベンダーって、不思議なんだ。花そのものはすごく小さいのに、人の心に深く残る香りを持ってる」
その言葉を聞いて、美咲はふと、自分の人生もそうであってほしいと思った。
大きな出来事や派手な功績じゃなくても、誰かの心に静かに残る温もりを届けたい――そう願った。
季節は巡り、ラベンダー畑が再び紫色に染まる頃、美咲は自宅の一角に小さなティールームを開いた。
壁には、かつて都会で拾いきれなかった夢のかけらと、新しい日々で集めた笑顔の写真が並ぶ。
メニューの一番上には、もちろん「自家製ラベンダーティー」。
説明文にはこう書かれている。
> “心をほどく一杯。
> 香りとともに、あなたの時間もやわらかくなりますように。”
開店初日、扉を開けて入ってきたのは、あの喫茶店の年配の店主だった。
偶然この町を訪れたらしい。
「あなた、あの時の……!」
二人は驚きと笑顔を分かち合い、カップを挟んで昔話をした。
店主はカップを口に運び、静かに目を閉じた。
「……いい香りね。あなたの時間が、このお茶に溶け込んでいるわ」
その言葉に、美咲の胸はじんわりと温かくなった。
その午後、ティールームの窓から差し込む光はやわらかく、湯気とともに漂うラベンダーの香りは、町の空気と溶け合っていた。
美咲は、これからもこの香りとともに生きていこうと思った。
大切なのは、誰かの心をそっとほどく一杯を、変わらず差し出し続けること――そう信じながら。