ライ麦色の朝

食べ物

駅前の小さなパン屋「クローネベーカリー」は、朝の7時になると必ず甘い香りとほんのり酸味を帯びた香りが混ざった空気に包まれる。
それは店主・岡田信一が焼き上げる、看板商品のライ麦パンの匂いだ。
その香りを求めて、毎朝必ず現れる客がいる。
佐藤絵美、32歳。
大手の広告会社で働く彼女は、日々の慌ただしさの中で、この店のライ麦パンだけは欠かさず買うと決めていた。

彼女がライ麦パンに出会ったのは、5年前の冬だった。
仕事でドイツへ出張したとき、現地の同僚に案内されて入った田舎町のカフェ。
外は粉雪が舞い、体は芯から冷えていた。
そこで出てきた一皿――温かいスープと薄くスライスされたライ麦パン。
最初は正直、地味な見た目だと思った。
しかしひと口かじった瞬間、その素朴で噛むほどに深まる酸味と香ばしさに心を掴まれた。
飾り気はないのに、体の奥まで沁みていくような味。
彼女はそれを「食べる毛布」と心の中で名付けた。

帰国後、日本でも同じ味を探したが、なかなか出会えなかった。
そんなある日、早朝出勤の途中で見つけたのが「クローネベーカリー」だった。
店の奥から漂う香りに吸い寄せられ、試しに買ったライ麦パンは、あの冬の日の味に限りなく近かった。
それ以来、絵美は毎朝ここに立ち寄るようになった。
仕事で落ち込んだ日も、雨の日も、休日でさえも。
彼女にとって、それは単なる朝食ではなく、日々を生きるための儀式になっていた。

ある朝、いつものように店を訪れると、店主の信一が珍しくカウンター越しに声をかけてきた。
「いつもありがとうございます。よかったら今度、新しいライ麦パンを試してみませんか?」
差し出されたのは、くるみとドライいちじくが練り込まれたライ麦パンだった。
切り口から見える淡い褐色と、ところどころ光る果実の粒。
ひと口食べれば、ナッツの香ばしさと果実の甘酸っぱさが、ライ麦特有の酸味と重なり、複雑なのに心地よい調和を生んでいた。
絵美は思わず笑顔になった。
「これ…またドイツで食べてるみたいです」
信一は照れくさそうに笑い、「うちの祖父が昔作っていたレシピなんです。戦後、ドイツで修行して覚えてきたとかで」と話した。

それから、二人は少しずつ言葉を交わすようになった。
信一は毎朝4時に起きて生地を仕込み、焼き上がるまでの時間を「一番静かで好きな時間」だと言った。
絵美は仕事で海外出張が多く、特にドイツには何度も行った話をした。
ある日、信一はふと、「もしよかったら、今度一緒にドイツパンフェアに行きませんか?」と誘った。
会場は横浜で、全国のパン職人が集まり、ライ麦パンの本場ドイツからの出店もあるという。

その日、会場は焼きたてパンの香りで満ちていた。
二人は試食コーナーを巡りながら、それぞれの感想を言い合った。
絵美は久しぶりに現地の酸味の強いライ麦パンを食べ、胸の奥がじんわり温かくなった。
「やっぱり、この味が好きです」
そう言うと、信一は少し間を置き、「じゃあ、僕もこの味をもっと追いかけます。あなたが、毎日食べたいって思えるくらいに」と笑った。

帰り道、絵美は思った。
ライ麦パンはただの食べ物ではない。
初めて出会ったあの日から、遠い冬の街の記憶や、人との温かなつながりを、毎日少しずつ運んでくれる。
そして、明日の朝もきっと、あの店で同じ香りに包まれて、一日を始めるのだろう。
彼女のポケットの中には、今日買ったばかりのくるみ入りライ麦パンが温もりを残していた。