冬の朝、窓の外には白い息を吐くように雪が降っていた。
小さな喫茶店「すずらん」の厨房で、店主の美咲は玉ねぎを刻んでいる。
包丁がまな板を打つ軽やかな音と、玉ねぎ特有の甘い香りが、まだ冷たい空気の中にゆっくり広がっていく。
美咲がこの店で一番大切にしているメニューは、オニオンスープだ。
たった一杯のスープが、人の心をあたためると信じている。
きっかけは、十年前のある冬の日のことだった。
当時、美咲は都会の大きなレストランで働いていた。
料理の腕を磨く日々は刺激的だったが、競争は激しく、笑う余裕などなかった。
そんなある夜、仕込みが終わった後に体調を崩し、ふらふらと帰路についた美咲は、偶然、小さな食堂に迷い込んだ。
「寒かったでしょう。これでも飲んで。」
差し出されたのは、湯気を立てるオニオンスープ。
琥珀色のスープの中に、飴色まで炒められた玉ねぎが沈んでいた。
一口すすると、やさしい甘さと塩気が喉を通り、体の芯まで温まった。
涙が出そうになったのは、きっと玉ねぎのせいだけではない。
その日から、美咲は「いつか、あの時のスープのように人を救う一杯を作ろう」と決めたのだった。
それから数年後、都会を離れ、古い町並みの一角に「すずらん」を開いた。
店はこぢんまりしているが、窓際には観葉植物が並び、木のテーブルと椅子は年月を経て味わいを増している。
開店当初はお客も少なかったが、「ここのオニオンスープは、心があたたまる」と噂が広がり、常連客が増えていった。
この日も、開店直後に小さなベルが鳴った。入ってきたのは、中学生くらいの男の子。
分厚いコートの袖から覗く手が赤くなっている。
「いらっしゃい。寒かったでしょう。」
男の子は黙ってうなずき、カウンターに腰を下ろした。
「オニオンスープ、お願いできますか」と小さな声で言う。
美咲は玉ねぎをじっくり炒め、ブイヨンと白ワインで香りを立たせる。
鍋から漂う甘い匂いに、男の子の表情が少しずつほぐれていく。
やがて、湯気の立つスープを前に置くと、彼はスプーンを手に取り、ゆっくり口に運んだ。
「……あったかい。」
その一言が、美咲の胸にしみた。
話を聞けば、両親が仕事で家を空けがちで、夜はコンビニ弁当ばかりだという。
学校でも友達が少なく、冬休みが近いのに心は沈んでいたらしい。
「ここに来れば、スープはいつでもあるからね。」
そう告げると、男の子はうつむきながらも「ありがとうございます」と小さく笑った。
日が経つにつれ、その男の子は常連になった。
試験前の日も、雪の日も、必ずスープを飲みに来た。
やがて、進学のために町を離れるとき、「美咲さんのスープは、僕の冬を救ってくれました」と手紙を置いていった。
それから数年後、春の終わりに、スーツ姿の青年が店のドアを開けた。
あの時の男の子だった。
「今日は、あのスープを食べに来ました。就職が決まったんです。」
嬉しそうに笑う姿に、美咲は胸が熱くなる。
彼の前に、あの日と同じオニオンスープを置く。
一口飲んだ青年は、ふっと目を細めた。
「やっぱり、この味です。」
外の雪はいつしかやみ、夕暮れの光が窓から差し込んでいた。
美咲は鍋を見つめながら思う。
オニオンスープは派手でも珍しくもない。
でも、じっくり玉ねぎを炒め、丁寧に作れば、飲む人の心を溶かす力がある。
それは、十年前に自分が救われたあの夜から、ずっと信じてきたことだった。
そして、これからも——この店と、このスープで、誰かの冬をあたため続けるのだ。