――村のはずれに、小さな池がある。
周囲をぐるりと囲むように柳が立ち、風が吹くたびに細い枝が水面をくすぐる。
池は深くも広くもないが、不思議と一年中、水が澄んでいた。
夏の終わりには白い睡蓮が咲き、冬でも氷が厚く張らない。
その池のそばに、よく座っている少年がいた。
名は蓮(れん)。
村の子どもたちは川や山で遊ぶのに夢中だが、蓮はひとり、この池を眺めて過ごすことが多かった。
ある日、村の老人が蓮に尋ねた。
「お前さん、そんなに池が好きか」
蓮は少し考えてから答える。
「はい。ここにいると、何か…声が聞こえるんです」
老人は目を細めた。
昔からこの池には“水の精”が住んでいると言い伝えがあった。
夜更け、満月の光が水面に満ちると、精は姿を現し、池の秘密を語るのだという。
蓮が初めてその声を聞いたのは、母を病で亡くした年だった。
泣くのを見られたくなくて、夕暮れにここへ来たとき、水面からかすかな囁きが届いた。
――だいじょうぶ。泣いても、ここでは誰も笑わない。
その声は風の音にも似て、けれどはっきり心に届いた。
蓮はそれから、毎日のように池に通った。
秋が深まる頃、村に噂が広がった。
「池を埋め立て、畑にするらしい」。
村人にとって畑は貴重だ。土地が増えれば食糧も安定する。
反対する者はほとんどいなかった。
けれど蓮の胸はざわついた。
もし池がなくなれば、あの声も消えてしまう。
蓮は勇気を出して村長の家を訪ね、言った。
「池は埋めないでください。あそこは…ただの水たまりじゃありません」
村長は苦笑した。
「気持ちは分かるが、あの池は古くから水脈が少なく、畑には向かん。だが埋めれば少しは…」
その夜、蓮は決意して満月の池へ行った。
水面は銀色に輝き、柳の影が揺れている。
耳を澄ますと、あの声がした。
――守りたいのですか。
「はい。どうすればいいですか」
――明日の朝、村人をここへ呼びなさい。私は見せます、この池の力を。
翌朝、蓮は村の人々を半ば強引に池へ連れてきた。
「見れば分かります!」と言うが、皆半信半疑だ。
その瞬間、池の底から光が広がった。
水がゆらぎ、睡蓮の花が季節外れに一斉に咲き始める。
淡い香りが漂い、空気まで澄み渡ったようだった。
驚く村人たちに混じり、村長は低くつぶやいた。
「…この水、甘い」
試しに汲んだ水は、冷たく透き通り、ほんのり甘みを帯びていた。
老人が頷く。
「昔、この水で病を治したと聞いたことがある。…埋めるなど、とんでもない」
こうして池は守られることになった。
それからも蓮は、変わらず池のそばで過ごす。
村人も時折水を汲みに来ては、静かに感謝を捧げた。
ある満月の夜、蓮は再び声を聞いた。
――ありがとう。あなたは私を救った。
「僕こそ…ありがとう。あなたが、僕を救ってくれたから」
水面に映る月が揺れ、ほんの一瞬、白い衣をまとった女性の姿が見えた。
やがて波紋に溶けると、池はただの静かな水鏡に戻った。
蓮は微笑んだ。
この池は、これからもずっと村と共に息づくだろう。
そして、自分の心の中にも、あの声は生き続けるに違いない。