静かに扉が閉まる音が、研究室の中に微かに響いた。
硝子瓶がずらりと並ぶ棚の前で、立花美香は白衣の袖をまくり上げ、慎重にスポイトで液体を吸い上げた。
彼女が目指しているのは「調香師」。
香りの世界に命を吹き込む仕事だ。
花、果実、樹木、土――自然のすべてを原料にし、記憶や感情に触れる香水を創る。
その奥深さに惹かれたのは、中学三年の春、祖母の化粧台からふわりと香ったジャスミンの香水だった。
「あんた、鼻がきくねぇ」と祖母は笑った。
美香は当時から香りに敏感で、母の煮物にひとつまみ入れ忘れた八角すら気づくほどだった。
大学で化学を学び、フランス留学も経て、今は東京の小さな香料会社で研修生として働いている。
上司である工藤主任は職人気質で厳しく、気に入らなければ一言も発しない。
しかし美香は負けなかった。
彼の沈黙は「興味がある証」だと信じていた。
今日、美香が調合しているのは、ある新ブランドのコンセプト「懐かしさ」に基づいた香水。
クライアントの注文は「幼少期の縁側、すだれ越しの陽光、祖母の笑い声」。
形のない記憶を香りで再現するという、極めて抽象的な依頼だった。
美香は何日もかけて原料を分析し、和柑橘の爽やかさ、白檀の落ち着き、干した布団のようなアンバーを組み合わせていった。
試作を繰り返し、ようやく手応えを感じた今朝、主任にサンプルを渡した。
彼は香りをひと嗅ぎし、何も言わずに立ち去った。
美香の心はざわついた。
ダメだったのか、それとも――。
夜、職場に一人残り、美香は完成したサンプルをもう一度嗅いだ。
仄かな柚子、優しいミルクティーのようなトンカビーンズ。
遠い記憶にそっと寄り添うような、温かな香りだと自負していたが、不安は拭えない。
そのとき、背後から声がした。
「――あれは、うちの祖母の家の匂いに似ていた」
振り返ると、工藤主任が立っていた。
珍しく、穏やかな表情だった。
「正直、驚いた。調香は記憶を引き出す芸術だとよく言うが、あれほど明確に思い出が浮かんだのは初めてだ」
美香の目に、熱いものがこみ上げた。
「じゃあ……この香りで、いけますか?」
「いいどころか、クライアントにすぐ提案しよう」
胸の奥がじんと熱くなった。
認められた。
その一言が、こんなにも嬉しいなんて。
その後、美香の香水は「縁の陽だまり」という名前で発売され、じわじわと人気を集めた。
どこか懐かしく、切なく、そして優しい香り――口コミには「亡き祖母を思い出しました」「帰省の記憶が蘇った」といった感想が並んだ。
美香は改めて、香りの持つ力を感じていた。
言葉にできない感情を、香りは代弁してくれる。
過去を包み、未来へ運んでくれる。
あれから一年。
美香は今、新たなテーマに挑んでいる。
「始まりの朝」という名前の香水だ。
自分が初めて調香師を目指すと決めた、あの日の朝。
どんな風が吹いていたか、どんな音があったか、どんな香りが漂っていたか――
記憶を辿るたびに、ほんのり甘いジャスミンと、春の雨の匂いが蘇る。
白衣の袖を再びまくり、美香はそっとスポイトを持つ。
香りの旅は、まだ始まったばかりだった。