鉄の匂いと夕焼け

面白い

山のふもとに、小さな鉄工所がある。
看板は色あせ、錆びたトタンの屋根が風に軋んで鳴る。
そこに勤めて二十年になる男がいる。
名を川島透(かわしまとおる)、五十歳。
無口で、無骨で、無事故が自慢のベテラン職人だ。

透は、毎朝五時に起き、弁当を詰め、まだ薄暗い道を原付で工場へ向かう。
鉄工所の門を開けた瞬間から、彼の一日は始まる。
ガスバーナーの音、鉄を打つハンマーの音、油の匂い、火花が弾ける音。
彼の身体は、それらすべてと一体になって動いていた。

「透さん、ここの溶接、きれいっすね……。マジで神業だ」

若い職人が感嘆の声を上げる。

「普通だよ。手順どおりやってるだけだ」

透はぶっきらぼうに答える。
けれどその目は、ちゃんとその若者の手元を見ていた。
不器用でも真面目に取り組む姿勢は、透の好みに合った。

かつて透にも、教えられる立場の頃があった。
父親もまたこの鉄工所の職人で、厳しくも寡黙な人だった。
怒鳴られ、叩かれ、それでも逃げなかった。
ある日、初めて一人で組んだ鉄骨が現場で使われると知ったとき、父親が小さく「やるようになったな」と呟いた。
それが透の一生の支えになっている。

数年前、父が亡くなり、工場長が引退。
経営は厳しく、今では社員も数人だけ。
いつ工場が閉まってもおかしくない状態だ。

「透さん、将来どうするんすか? もしここ、潰れちゃったら」

若者が言った。

「……潰れても、鉄は残る。どこかでまた、誰かが叩くさ」

透はそう言って、バーナーの火を強めた。
彼にとって、鉄は仕事である前に、存在そのものだった。
熱を加えれば柔らかくなり、冷えれば硬くなる。
裏切らない。
正直に応えてくれる素材だ。

そんなある日、東京の大手建設会社から依頼が来た。
大型商業施設の装飾に、手仕事の鉄製パネルを使いたいという。
透の作ったサンプルを見て、担当者が一目惚れしたのだという。

「川島さん、ぜひお願いしたい。機械加工では出せない表情がある。まさに“人の手”の技です」

透は一度断った。
自分は芸術家じゃない、ただの町工場の職人だ、と。

だが、若い職人がぽつりと言った。

「俺、この仕事、誇り持てるようになったんすよ。透さんの仕事見てて。だから……見せてやってくださいよ、あの鉄の表情を、もっといろんな人に」

その一言が、透の中の何かを揺らした。

納期は厳しく、設計は複雑だった。
だが、透は黙々と作り続けた。
鉄を焼き、叩き、磨き、時には彫りを加え、時には歪みを活かした。
数ヶ月後、完成したパネルは、まるで夕焼けのような色合いを帯びていた。
無機質な鉄に、人の手と心が宿っていた。

納品の日、透は現場まで足を運んだ。
ビルの壁面に、自分の鉄がはめ込まれていく。
周囲の人が写真を撮り、子どもが手で触れていた。

「わあ、かたいけど、あったかい!」

その声を聞いたとき、透は初めて、自分の仕事が“誰かの心に届く”ことを知った。

その日、帰り道。
原付の上で見上げた空は、鉄のように強く、夕焼けのようにやさしかった。

彼は口元を少しだけゆるめ、ぽつりと呟いた。

「……悪くないな」

鉄の匂いが、今日も彼の人生を支えている。