ライムの香りがすると、沙季は小さく笑う。
それは夏の記憶と結びついている。
じりじりと照る太陽と、海辺の風と、氷が弾ける音。
彼女の人生において、ライムはただの果物ではなかった。
沙季がライムに出会ったのは、小学六年生の夏休み。
母親に連れられて訪れた沖縄の離島で、民宿のおばあが出してくれたライムソーダだった。
グラスのふちに飾られた薄い緑の輪が、強烈な日差しに透けて光っていた。
ひとくち飲んで、目を丸くした。
「すっぱ…でも、さわやか!」
それがすべての始まりだった。
それからというもの、沙季はライムの虜になった。
スーパーで見つけると母にねだり、炭酸水に浮かべたり、ライムの皮をすりおろしてお菓子に混ぜたり。
中学生になる頃には、自分でライムシロップを煮詰めては冷蔵庫に保存していた。
だが、大人になるにつれ、日々の忙しさに追われ、ライムの存在は少しずつ遠のいていった。
社会人三年目の夏。
沙季は東京の小さなデザイン会社で働いていた。
クライアントに追われ、終電で帰宅する生活が続き、好きだった香りや味のことも、忘れかけていた。
そんなある日、偶然見つけた一軒の店が、彼女の記憶を引き戻した。
「Lime & Leaves」という名の、小さなカフェ兼雑貨店。
ガラス戸の向こうから、涼しげな香りが漂ってきた。
ふと足を止めた。
吸い寄せられるように中に入ると、白と緑を基調にした明るい空間に、ドライライムを使ったキャンドルや、ライムのリキュール、ジャム、石鹸などが整然と並んでいた。
「ライム、お好きなんですか?」
店主の女性が話しかけてきた。
年齢は三十代半ばほどで、目元に柔らかい笑みを浮かべていた。
「小さい頃から好きなんです。でも、すっかり忘れてました」
沙季は素直にそう答えた。
すると、店主は頷きながら奥の冷蔵棚から何かを取り出した。
「特製のライムジンジャーソーダ。試飲してみませんか?」
グラスに注がれた炭酸が、ぱちぱちと弾ける。
ひとくち飲んだ瞬間、あの夏の記憶が鮮やかによみがえった。
「…あの島で飲んだのに似てます」
「そう言ってもらえると嬉しいです。
私も昔、ライムに救われたことがあるんです」
話を聞くと、店主もまた人生に行き詰まっていた時期に、ふと手にしたライムの香りに癒やされたのだという。
その感覚を誰かと分かち合いたくて、この店を始めたのだと。
「香りや味って、不思議ですよね。時を超えて、自分を取り戻せることがある」
沙季は深く頷いた。
それからというもの、週に一度は「Lime & Leaves」に通うようになった。
カフェで読書したり、店主と話したり、自分の中の「好き」を再確認する時間だった。
ある日、店主が小さな瓶を手渡してくれた。
「これ、試作中のライムとバジルのシロップ。良かったら使ってみてください」
家に帰り、炭酸水で割って飲んだその瞬間、沙季は思った。
——私も、こんなふうに「好き」を届けることができたら。
デザインの仕事を活かして、ライムをテーマにした雑貨やレシピカード、オリジナルのパッケージデザインを考え始めた。
そして店主に提案してみたところ、快く受け入れてくれた。
「ここで一緒に、小さなライムの物語を紡ぎませんか?」
沙季の頬が緩んだ。
社会の荒波に揉まれて、忘れていたもの。
それは「心が喜ぶ時間」だった。
今、彼女の手には毎日ライムの香りがある。
そして、それを誰かに届ける喜びも——。
緑の果実は、いつだって彼女を夏へと連れ戻してくれる。
さわやかな風と、氷の音と一緒に。