冬の終わり、東京の片隅にひっそりと佇む八百屋「まつ乃屋」の店先に、今年も瑞々しい白菜が並び始めた。
「うん、この巻き方、最高だねえ……!」
小柄な女性がその場にしゃがみ込み、ひとつひとつの白菜をじっくりと撫でるように見つめている。
彼女の名は井坂美和(いさか・みわ)、三十歳。
小さな広告代理店で働く会社員だ。
おしゃれなカフェや高級スーパーには目もくれず、週に一度、この下町の八百屋を訪れるのが彼女の何よりの楽しみだった。
「お、美和ちゃん。今年も来たね、白菜の季節」
「はい。白菜のために働いてるようなもんですから」
「ははは、それは白菜冥利につきるよ」
まつ乃屋の店主・松野さんは、毎年、冬になると契約農家から特別に取り寄せた白菜を仕入れる。
それは、丸くて甘くて、煮込めばとろりととける極上品。
美和はこの白菜がないと冬を越せないと本気で思っていた。
彼女の白菜好きには、理由がある。
美和が小学五年生の冬、母が病に倒れた。
病院に通い詰める父の代わりに、家事を任された美和にとって、料理は未知の世界だった。
そんなある日、近所に住む祖母が鍋いっぱいの「白菜と鶏団子のスープ」を持ってきた。
優しい出汁の香りと、甘く煮えた白菜の柔らかさ。
その一口で、美和の胸にじんわりと何かが溶けた。
「お母さんが元気になるまで、あんたがごはん当番やね。でも、白菜はええよ。切って煮るだけで、誰でもおいしくできる」
それから、美和は白菜を使って毎日スープやおひたし、鍋、漬物を作った。母が退院した後も、それは美和の台所の主役だった。
社会人になってからも、その習慣は変わらない。
仕事で落ち込んだ日も、帰宅して、薄くスライスした白菜をだしでことこと煮る時間が、彼女にとっての癒しだった。
じっと火の中で甘くなる白菜を見ていると、不思議と心がやわらぐ。
誰も褒めてくれなくても、白菜は静かに応えてくれる気がした。
ある年の冬、会社の後輩・拓海が彼女の弁当を見て言った。
「先輩、毎日白菜ですね。まさか……ダイエット?」
「違うわよ、白菜が好きなの」
「白菜って、そんなに?」
彼は本気で驚いていたが、美和は笑って「何が悪いの」と答えた。
好きなものは、理由なんていらない。
そう思っていた。
だがその後、思いもよらぬ展開が起きた。
拓海が、「白菜、ちょっと興味出てきたんで」と言って、美和にレシピを教わり始めたのだ。
それどころか、週末には白菜を買いに一緒にまつ乃屋まで来るようになった。
「先輩の言ってた、甘くなるって、ほんとですね。鍋に入れてもシャキシャキしてるのに、芯のほうはとろける……なんか、癒されるっていうか」
「でしょ?」
それから二人は、毎週のように白菜料理を試し合うようになった。
ロール白菜、白菜キムチ、白菜と塩昆布のサラダ、白菜と柚子の漬物。
冬の間、彼女の冷蔵庫には常に何かしらの白菜料理があった。
そして春が近づく頃、まつ乃屋の店頭から白菜が姿を消した。
「ああ、今年も終わりか……」
しんみりする美和の隣で、拓海がぽつりと言った。
「……先輩、来年も一緒に白菜、食べてくれますか?」
え?と顔を上げた美和に、彼は少し照れたように笑った。
「その……いや、要するに、ずっと一緒にいたいなって。白菜抜きでも」
春の風が、通りの空気をやさしく揺らした。
白菜が好きだったから始まった関係。
でも今は、白菜がなくても、話したい人がいる。
食べたい人がいる。
「もちろん。白菜がなくても、あなたがいればいい」
二人の頬に、ほんのり春の色が差した。
白き菜がつないだ小さな縁。
それは、ゆっくりと春へ向かって、ほどけていった。