澄んだ朝の空気を吸い込むと、心まで清められる気がした。
高橋咲良は、まだ街が目覚めきらない午前五時、ひとりパン屋の扉を開ける。
「おはようございます」
静かに挨拶をして、咲良は厨房の電気をつける。
彼女が焼くのはフランスパン。
それだけ。
クロワッサンもデニッシュも、食パンも焼かない。
“フランスパン専門店 ル・ソレイユ”
半年前に開いた、自分だけの店だった。
咲良は子どもの頃から、固くて素朴なフランスパンが大好きだった。
街のパン屋で、あの香ばしい香りを胸いっぱいに吸い込んだ瞬間を、今も覚えている。
だが、周囲の人はいつも言った。
「フランスパンだけって、売れないよ」
「もっと柔らかいパンが人気なのに」
それでも咲良は、譲らなかった。
パリで修行したとき、現地の職人が言った言葉が胸にある。
「バゲットは、飾らないパンだ。だけど、命をかけて焼くんだ」
粉と水と塩と酵母。
たったそれだけの材料で、どこまで美しく、どこまで香り高く焼けるか。
そこに命を注ぐことが、咲良にとっての誇りだった。
今日も、石床に置いた生地はパチパチと音を立てて焼ける。
生地にクープナイフを入れるときは、毎回、息を止める。
開き具合、膨らみ、香ばしさ。
すべてが違う。
六時になると、いつもの客がやってくる。
「おはよう、咲良ちゃん。いつもの一本」
隣の花屋の店主、長谷川だ。
「おはようございます。今日のは、少し香ばしく焼けました」
フランスパンを抱えた長谷川は、にっと笑って店を出ていく。
七時。
若いカップルが寄る。
「朝ごはんに、ここのバゲット、最高なんだよな」
咲良は心の中で、そっと握り拳を作る。
客は増えたり減ったり、決して多くはない。
だけど、みんなが「また来る」と言ってくれる。
焼き上げたパンの山が、だんだん減っていくのを見るたび、咲良は静かに胸を熱くする。
パンを愛する人たちに、自分のフランスパンが届いている。
それが、どんなに嬉しいことか。
店の奥に、パリ修行時代の仲間がくれた言葉が飾ってある。
「パンは、人を幸せにする」
咲良は、オーブンから最後の一本を取り出し、ふっと息をついた。
焼き上がったバゲットは、まるで朝日を浴びたように輝いていた。
今日も、良い一日が始まる。