七月の朝、アンヌはサン・ルイ島のカフェに座って、いつものカフェ・クレームをすすった。
目の前には、朝焼けに染まるセーヌ川。
ノートルダムの尖塔が川面に映り、船がゆっくりと通り過ぎる。
アンヌは観光客ではない。
二年前に日本から越してきて、パリの古本屋で働いている。
フランス語もまだたどたどしい。
でも、毎朝このカフェで川を眺めることが、彼女にとってパリを愛する理由になっていた。
その朝、川辺に一人の男が立っていた。
黒のジャケットにジーンズ。
古びたスーツケースを脇に置き、何かを川に投げ入れていた。
白い封筒だった。
アンヌはなぜか目を離せなかった。
男はふっと微笑むと、ふいにこちらを向いた。
目が合った。
深いグリーンの瞳だった。
男はゆっくりとアンヌのテーブルに近づき、ためらいがちに声をかけた。
「…Bonjour」
「ボンジュール」
アンヌが微笑み返すと、彼は照れたように笑った。
「今、手紙を川に流したんですか?」
彼は少し驚いた顔で頷いた。
「そう。別れの手紙だ」
彼はイタリア人の画家だった。
名はレオ。恋人と別れ、パリを離れる決意をしたところだったという。
手紙を川に流せば、心も少し軽くなるかと思ったと。
アンヌはふっと微笑んだ。
「セーヌは、そういう川ですよね」
レオも笑った。
ふたりはそのまま並んで川を眺めた。
朝の光に、パリの古い石畳が柔らかく輝いている。
カフェのテラスに漂うクロワッサンの香り。
すべてが静かに美しかった。
レオは別れ際、名刺代わりに小さなスケッチブックを渡した。
そこには、パリの街角が生き生きと描かれていた。
マレの古い通り、モンマルトルの坂道、雨上がりのポン・ヌフ。
「これは…あなたが描いた?」
レオは頷いた。
「きっと、君もパリが好きだと思った」
その一言に、アンヌの胸は温かくなった。
彼はパリを去る。
だが、ふたりはパリで出会った。
翌朝、アンヌはいつものカフェに座った。
スケッチブックを開き、ページの隅に小さく書かれた文字に気づいた。
“À bientôt — またね”
セーヌの流れは、今日も静かに街を抱いている。
この町は、出会いと別れの美しい舞台。
アンヌはカフェ・クレームをひと口すすり、微笑んだ。
パリの風が、そっと髪を揺らした。