中村陸(なかむら・りく)、二十歳。彼は物心ついたときから空手をやっていた。
父は町道場の師範で、少年の頃は家でも道場でも常に父の厳しい指導があった。
泣いた日も数知れない。
だが、拳と足でぶつかり合うあの瞬間にだけ、自分の心がすべて解き放たれるような感覚を覚えていた。
それが、彼にとっての“好き”の始まりだった。
中学、高校と空手部に所属し、県大会では何度も入賞。
だが、全国の壁は高く、結果は振るわなかった。
それでも陸は続けた。
勝つためでも、誰かに認められるためでもなく、自分にしか分からない熱のために。
「なんでそこまでやれるの?」
友人にそう訊かれたことがある。
「風の音が聞こえるんだ」
彼は真顔で答えた。
ふざけていたわけじゃない。
打突の瞬間、足を踏み込んだそのわずかな呼吸、相手の気配、気の緩み――すべてが風となって自分に語りかける。
それを聴くために、陸は稽古を続けていた。
だが大学に入ってしばらくした頃、父が突然倒れた。
脳出血だった。
道場はしばらく閉鎖され、指導していた子供たちは別の道場に移っていった。
母は病院と家を行き来し、陸も学校とバイト、そして病院での看病に追われる日々を送った。
空手から離れた日々。
身体は鈍り、心も濁っていくのが分かった。
試合に出ることも、稽古することもできず、道場も再開のめどが立たない。
ふと、自分はなぜ空手をやっていたのか、何のためにこんなに時間を費やしてきたのか、分からなくなることもあった。
ある日、病院で車椅子に座った父が静かに言った。
「道場……やめようと思うんだ」
陸は驚き、反射的に言い返した。
「まだ、できるよ。リハビリして、少しずつ戻って――」
「もういいんだ。お前が継ぐなら別だが」
沈黙が落ちた。
父の目は真剣だった。
だが、どこか少し寂しげでもあった。
その夜、陸は父の空手ノートを読み返した。
技の解説、指導メモ、試合の反省。
ぎっしりと詰まったその文字の一つひとつに、父の人生があった。
そして、その隣でいつも汗を流していた自分がいた。
「……俺、やっぱり、空手が好きなんだな」
そう呟いたとき、胸の奥で何かが小さく鳴った。
それから陸は、もう一度道場を開く準備を始めた。
まずは子供たちに声をかけ、町内にビラを配り、古くなった道場の畳を自分で張り替えた。
父のようには教えられないかもしれない。
でも、好きな気持ちは変わらない。
最初は子どもが3人だけだった。
だが、ひと月後には5人、半年後には10人以上に増えた。
「先生、今日も“風”が来たよ!」
ある小学生がそう言って笑った。
陸も笑って頷いた。
「そうか、よく聴こえたな」
かつての自分がそうだったように、彼らもいつか、自分の風の音を聴く日が来るだろう。
空手は、ただの勝負じゃない。
自分と向き合い、相手を敬い、技と心を磨き続ける道――。
陸は今も、その道の途中にいる。