きんぴらごぼうの向こう側

食べ物

「ごぼうは、土の香りが命なの」

そう言って、佳乃(よしの)は今日も黙々ときんぴらごぼうを炒めていた。
彼女は三十七歳。
東京・下町にある小さな惣菜店「よし乃の台所」の店主だ。
店の一角には、きんぴらごぼうだけを目当てに通う常連客たちの姿がある。

ごぼうの皮は包丁の背で優しくこそげ取る。
あくまでも“こそげ取る”であって、“剥く”のではない。
剥いてしまえば、あの独特の土の香りが飛んでしまう。
水にさらす時間も短く。
さらしすぎれば、ごぼうの命が失われる。

佳乃がこの細部にまでこだわるようになったのは、祖母・澄江の影響だった。
彼女が小学二年生のとき、母を事故で亡くし、父は仕事一筋の不器用な人間だった。
そんな中、佳乃の面倒を見てくれたのが祖母だった。

「いい? 佳乃。きんぴらはね、家庭の味の中の戦士なのよ」

小さな体に強い香りと歯応え、そしてごま油の香ばしさ。
それが澄江のきんぴらだった。
体が弱くなっても、祖母は毎朝、少量だけ作って佳乃に持たせてくれた。
中学、高校、短大、そしてOLになってからも。
あの味が、彼女にとっての“お守り”だった。

だが、三年前の冬、澄江は静かに息を引き取った。
佳乃はその後、会社を辞め、祖母のレシピを元に「きんぴらごぼうを中心にした惣菜店」を始めた。

「ごぼう一本に、命を感じるようになったの」

ある日、テレビの取材でそう語った佳乃は、SNSで話題となり、遠方からも客が来るようになった。
でも、彼女は浮かれることなく、毎朝築地に通い、農家の直送ごぼうを一本一本選ぶ。
機械切りは使わない。
すべて自分の手でささがきにする。

彼女の店には、こんなメニューが並ぶ。

・基本のきんぴら(醤油とみりんのバランス重視)
・柚子胡椒きんぴら(爽やかな辛味)
・黒酢と黒糖の甘辛きんぴら(年配向け)
・ごぼうと人参のごま味噌きんぴら(子ども向け)
・ピリ辛七味きんぴら(おつまみに)

ある日、若い男性が店に入ってきた。
スーツに皺があり、疲れ切った表情の彼は、きんぴらを一口食べると、ふいに涙をこぼした。

「……これ、母の味です」

聞けば彼の母は地方の看護師で、夜勤明けでも必ず朝に弁当を作ってくれていたという。
中でもごぼうのきんぴらが好物だったが、数年前に他界したという。
以来、一度もその味に出会えなかったらしい。

佳乃は、静かにほほ笑み、「あの人の味じゃなくても、私の味でよければ、またどうぞ」と言った。

きんぴらごぼうは、ただの副菜かもしれない。
だが、そこに人の記憶やぬくもりが宿る。
佳乃は知っている。
香りと歯応えは、言葉以上に人の心を癒すことがあると。

今朝も佳乃はごぼうを切る。
音を聴きながら、心を整えるように。
包丁の音がリズムを刻み、ごま油が温まっていく。

「よし、今日も、戦士を送り出そうか」

きんぴらごぼうは、彼女にとっての祈りであり、約束だった。
土の香りをまとったその小さな一皿に、彼女は人生を込めているのだった。