中川陽平は、唐揚げが大好きだった。
好き、という言葉では足りないほどに。
昼休みの弁当に入っていれば思わずガッツポーズし、商店街の惣菜屋で揚げたての香りを嗅げば、財布の紐がゆるむ。
居酒屋ではメニューに目もくれず「とりあえず唐揚げ」と注文するのが彼の定番だった。
そんな陽平が料理に目覚めたのは、大学を卒業して一人暮らしを始めてからだった。
最初は市販の唐揚げ粉を使っていたが、どうにも実家の味に近づかない。
母に聞けば、にんにくや生姜はすりおろしてから使い、下味は最低でも一晩漬けること、衣には片栗粉と小麦粉を半々に混ぜること、揚げ油の温度は「最初は高めで、途中で少し下げる」と、細かなこだわりが次々と飛び出してきた。
「じゃあ、いっそ自分でやってみるか」
フライパンに油を張り、鶏もも肉を切り分け、手をベタベタにしながら揚げた。
ジュワッと音が立ち、香ばしい匂いが部屋に広がる。
思わず唾を飲んだ。
だが、最初の一口は、理想からはほど遠かった。
衣がべちゃつき、肉に味がしみていない。
思い描いていた“あの味”とはまるで違う。
そこから、陽平の唐揚げ探求が始まった。
仕事帰りにスーパーマーケットで鶏肉を買い、毎晩のように試作した。
塩こうじを使ってみたり、二度揚げに挑戦してみたり、時にはレモン風味やカレー味に脱線したりもした。
「なんでこんなに唐揚げにこだわってるの?」
そう言って笑ったのは、同僚の奈々だった。
社内の飲み会で隣に座り、彼が唐揚げに異様な熱を込めて語るのを聞いた時のことだ。
「うーん……たぶん、母さんの味が、心の中で“基準”になってるんだと思う」
照れくさそうに笑いながら言ったその言葉に、奈々は少しだけ驚いたような顔をした。
やがて、「その味、食べてみたいな」と言って、彼の家に遊びに来ることになった。
迎えた休日。陽平は、唐揚げに全集中した。
いつもより丁寧に下処理をし、朝から肉を漬け込み、衣の配合も微調整。
揚げ油の温度はデジタル温度計で正確に計った。
揚げ終わった唐揚げは、外はカリッと、中はふっくらジューシー。
自分でも思わず「うまそう…」と呟く出来だった。
「熱いうちに、どうぞ」
奈々が一口食べて、目を丸くした。
「えっ、めっちゃおいしい。お店のよりおいしいかも」
その言葉に、陽平の胸の奥がじんわり温かくなった。
何十回と試作を重ねてきた日々が、この一言で報われたような気がした。
それから、陽平はもっと唐揚げを突き詰めるようになった。
衣の軽さを求めて米粉を試したり、甘辛ダレに絡めて韓国風にしたり、地方の唐揚げ文化も調べて再現したり。
SNSでレシピを発信するうちにフォロワーも増え、「唐揚げお兄さん」と呼ばれるようになった。
ある日、奈々がぽつりとつぶやいた。
「唐揚げって、ただの料理じゃないんだね。陽平くんの生き方そのものみたい」
唐揚げに本気で向き合う自分を、誰かがちゃんと見ていてくれる。
それが、何よりも嬉しかった。
数年後、陽平は会社を辞めて、小さな唐揚げ専門店を開いた。
「からっと屋 ようへい」。
カウンターだけの十席にも満たない店だが、連日満席。母の味をベースにしながらも、彼自身の手で磨き上げた唐揚げを、たくさんの人が求めてやってくる。
厨房の奥、白い制服姿で油のはねる音を聞きながら、陽平は思う。
——唐揚げの向こう側には、いつも誰かの笑顔がある。
だから、今日も妥協はしない。
カラリ、といい音がした。
黄金色に揚がった唐揚げを皿に盛るその手には、これまでの情熱と、これからの希望が、ぎゅっと詰まっていた。