バケットハットと夏の追憶

面白い

蒼井遥(あおいはるか)は、バケットハットが好きだった。
きっかけは、小学五年生の夏休み。
母親が近所の手芸教室で作ってくれた、白地にひまわり模様のバケットハットが始まりだった。

それを被ると、夏の匂いが一気に広がった気がした。
照りつける太陽、アスファルトの熱、セミの鳴き声。
全部がその帽子に染み込んでいるようで、被っている間だけ、自分が特別になった気がした。

それから遥は、毎年夏になるとバケットハットを集めるようになった。
高校では古着屋を巡り、大学生になると自分でミシンを手に入れて、オリジナルのものを縫うようになった。
ハリのある帆布や、やわらかいリネン、古い浴衣の布地。
バケットハットは、どんな素材でも受け入れてくれた。

二十四歳になった今でも、その情熱は冷めることなく、遥の部屋には季節ごとに仕分けられたバケットハットのコレクションがずらりと並んでいた。
通勤時にはシンプルな黒、休日は鮮やかな赤、旅先では撥水加工のカーキ色。
鏡の前で、今日の気分に合う一つを選ぶ時間が、彼女にとっての一日の始まりだった。

しかし、ある日、仕事帰りに立ち寄ったカフェで、不思議な出会いがあった。

その男は、端の席でノートパソコンを開き、うつむき加減にカチャカチャと打ち込んでいた。
頭には、少し色褪せたデニム地のバケットハット。
どこか見覚えのあるシルエットだった。

思わず声をかけてしまった。

「その帽子、自分で作ったんですか?」

男は驚いたように顔を上げると、少しだけ口元を緩めた。

「いや、昔の知り合いが作ってくれたものなんです。捨てられなくて、もう十年ぐらい被ってます」

その返事に、遥の胸が不思議とざわめいた。
バケットハットは“使い捨てじゃない”。
それを同じように思っている人が、目の前にいる。
それだけで、なぜか心が通った気がした。

二人はその日をきっかけに、何度かカフェで会うようになった。
名前は沢渡誠(さわたりまこと)、フリーのデザイナーで、主にアプリのUIを作っているという。
服にはまるで興味がないようで、持っている帽子もたった一つだけ。
でも、そのバケットハットには強い思い出が詰まっていた。

「昔、好きだった人が作ってくれたんです。別れたあとも、これだけは捨てられなかった」

遥は、その話を聞いて静かに頷いた。
人は、想いを物に宿す。
それがバケットハットだったことが、彼女には嬉しかった。

ある日、遥は一つの決心をして、自作の帽子を誠に手渡した。

「これ、よかったらもらってくれませんか?」

生成りのリネン地に、淡いブルーのステッチ。
涼しげで、どこか控えめな雰囲気が誠に似合うと思った。

誠は驚いた顔をしてから、ふっと笑った。

「今度は、この帽子を思い出にできるような日々にしたいですね」

遥の頬が、熱くなるのを感じた。

それから数ヶ月。
遥の作った帽子は、誠の頭に自然となじんでいった。
もう色褪せた昔の帽子は、そっと棚の奥にしまわれていた。

ある夏の午後、二人は海辺を歩いていた。
風が強く、遥の帽子が飛ばされそうになった。

「ちゃんと顎紐つけたほうがいいですよ」

誠が笑いながら言った。

「……そうですね。でも、飛んでっちゃったら、また一緒に探してくださいね」

風の中、二人の笑い声が響いた。
バケットハットは、ただの帽子じゃない。
それは、思い出を受け止め、次の季節へと運んでくれる、小さな船のような存在だった。