春の終わり、風が柔らかく頬をなでる頃になると、町外れの古い洋館の庭には、一面に赤いポピーの花が咲き乱れる。
洋館に住むのは、七十を過ぎた女性・和子だった。
和子は毎年、庭のポピーが咲くのを誰よりも楽しみにしていた。
朝起きてすぐ、まだ露をまとった花びらに手を触れ、揺れる姿に目を細める。
その様子はまるで昔の恋人に再会したかのように優しい。
かつて、和子は画家だった。
東京で暮らしていた若い頃、彼女はポピーの絵ばかりを描いていた。
「どうしてそんなにポピーばかり?」と聞かれるたび、「理由はないわ。なんとなく、風と一緒に生きてるみたいだから」と笑って答えていた。
だが、本当は理由があった。
ポピーを好きになったのは、二十代の終わり、ある青年と出会った春からだった。
青年の名は優馬。
小さな出版社で働く編集者で、和子の初めての個展にふらりと現れた。
誰よりも熱心に絵を見つめ、「このポピー、泣いてるように見える」とつぶやいた。
その言葉に、和子の心は動いた。
「あなたにも、そう見えるの?」
それが、ふたりのはじまりだった。
週末になると、ふたりは近くの郊外へ出かけて、スケッチをしたり、静かな喫茶店で語り合ったりした。
優馬は詩を書くのが好きだった。
和子はその詩に挿絵を描いた。
ポピーの花と、風と、ふたりの時間。
それは、何よりも愛おしい季節だった。
だが、幸せは長く続かなかった。
優馬は病を患っていた。
最初はただの風邪だと思っていたが、診断は白血病。
あっという間に体力を奪われ、病室のベッドから出られなくなった。
「ポピーの花、見たいなあ」
それが、最後の春だった。
和子は病院の窓辺に、小さな鉢植えのポピーを持っていった。
風には揺れないけれど、花は咲いていた。
優馬はそれを見て微笑み、こう言った。
「風が通りすぎるたびに、君のことを思い出すよ。…だから、ポピーを見たら、僕を思い出してくれる?」
それから五十年。
和子は東京を離れ、ふたりで訪れたあの郊外の町に引っ越し、小さな庭にポピーを植え始めた。
最初の数年は、うまく育たなかった。
だがある年、雨が多く風が穏やかな春に、庭が真っ赤に染まった。
「やっと咲いたわね、優馬」
その日、和子は初めて、涙を流してポピーの絵を描いた。
優馬が好きだった、風にゆれる姿を忘れないように。
それ以来、毎年欠かさず、庭にポピーの種をまき続けている。
ある日、若い女性が和子の家を訪れた。
近くに引っ越してきたという画学生で、ふとポピーの花に惹かれて足を止めたのだという。
「こんなにたくさんのポピー、初めて見ました」
和子は微笑みながら、若い頃の自分を思い出した。
「理由もなく惹かれるのよね、ポピーって。風と一緒に生きてるから」
それは、昔の和子が口にしていた言葉だった。
少女は和子の絵を見て、目を輝かせた。
「これ、泣いてるように見える。…でも、悲しいだけじゃない。強くて、美しい」
和子は、ふと空を見上げた。
風が、庭のポピーを揺らしている。
——きっと今も、あの人は風の中にいる。
そう思うと、心がふわりと温かくなる。
来年も、再来年も、この庭にポピーを咲かせよう。
そして、どこかの誰かがまた、ポピーに心を奪われたとき。
その中に、ほんの少しだけ、優馬の言葉が生きていたらいい。
それだけでいい。