ナポリタンの午後

食べ物

小さな喫茶店「ルミエール」は、昭和の香りを色濃く残す一軒だった。
木目のテーブル、革張りの椅子、レトロなペンダントライト。
そして何より、この店には「絶品ナポリタン」があるという噂があった。

三浦圭太(みうらけいた)、三十四歳。
仕事は都内の小さな広告代理店に勤める営業マン。
彼が「ルミエール」に通い始めたのは、三ヶ月ほど前のことだった。

きっかけは偶然だった。
客先でのプレゼンが終わり、ふと立ち寄った路地裏。
昼時で腹が減っていた彼は、赤いテントに惹かれてふらりと入った。

「ナポリタンください」

店内は静かで、年配の女性が一人で切り盛りしていた。
「お待ちどうさま」と運ばれてきたそれは、ケチャップの香ばしい香りに包まれ、ピーマン、玉ねぎ、ハムが絡む、昔ながらの一皿だった。

ひと口食べた瞬間、圭太は時を遡った。

――小学生の頃、母親がよく作ってくれたナポリタン。

塾から帰ると、フライパンの中で踊るパスタの音がして、ケチャップの匂いが台所に立ち込めていた。
あの頃の自分は、母親の料理を当然のように思っていた。
でも大学進学と同時に家を出て、いつしか母も他界し、手作りのナポリタンは記憶の中だけのものになっていた。

それ以来、圭太は毎週金曜日の午後になると「ルミエール」に通うようになった。

仕事でどんなに疲れていても、この店のナポリタンだけは彼の心をほぐしてくれた。
口の中に広がる甘みと酸味、アルデンテよりも少し柔らかい麺。
まるで「おかえりなさい」と言ってくれているような、そんな味だった。

ある日、彼はふと、ナポリタンを作っているその女性に尋ねた。

「この味、どうやって出してるんですか?」

女性――店主の原田美代子(はらだみよこ)は、にこりと笑った。

「ケチャップにね、ほんのちょっとだけ、ウスターソースとバターを混ぜてるのよ。あとは、気持ち」

「気持ち?」

「大事なのよ、ナポリタンには。うちに来るお客さん、だいたい疲れてるからね。おなかだけじゃなくて、気持ちもあったかくなるようにって」

圭太は笑った。
「それ、いいですね」

その日のナポリタンは、今までより少しだけやさしい味がした気がした。

数週間後、ルミエールに変化が訪れた。
美代子が倒れたのだ。
持病の心臓の発作だった。
幸い命に別状はなかったが、しばらくは店を休まざるを得なかった。

その知らせを聞いた圭太は、心にぽっかり穴が開いたような気持ちになった。
ルミエールのナポリタンがない金曜日なんて、考えられなかった。

それでも彼は、店の前まで行って立ち止まった。
閉ざされたシャッターを見つめながら、思った。

――自分にも、誰かの気持ちを温められる仕事ができているだろうか。

それからの圭太は、仕事に少しだけ丁寧になった。
資料のレイアウト一つとっても、「伝える相手」がいることを意識するようになった。

一ヶ月後、ルミエールは再開した。

「お待たせしました」と店主が微笑み、久しぶりのナポリタンが運ばれてきた。

その日、圭太はゆっくりとフォークを手に取り、一口目を味わった。

「――やっぱり、帰ってきたって感じがしますね」

美代子はまたにこりと笑った。

「おかえりなさい」

ルミエールの午後は、今日も変わらず、ケチャップの香りで満ちていた。