くまのアトリエ

面白い

部屋の窓辺に、小さなアトリエがある。
針と糸、色とりどりの布、そして壁一面に並んだぬいぐるみたち。
そこは、山口春(やまぐちはる)という女性の特別な場所だった。

春は三十二歳。
会社勤めをしていた頃もあったが、今は自宅でぬいぐるみ作家として暮らしている。
ぬいぐるみが好きになったのは、幼い頃に祖母からもらった、古びた茶色いくまのぬいぐるみがきっかけだった。

「ハルちゃん、この子はいつも味方だよ」

祖母はそう言って、くまを春の腕に抱かせた。
名前は“モク”。
綿は少し飛び出し、片目はなくなっていたけれど、その不完全さがかえって愛しかった。
泣いた夜も、熱を出した日も、モクは春の隣にいた。

けれど大人になるにつれ、モクは押し入れの奥へ追いやられていった。
仕事に追われ、恋に疲れ、人生に迷い、ある日ふと立ち止まったとき、春は思い出したのだった。
自分を一番慰めてくれたのは、言葉のいらないぬいぐるみたちだったと。

その日から春は、再び針を手に取った。
会社を辞め、貯金を切り崩しながら、ぬいぐるみ作りを始めた。
最初は手探りだったが、SNSで作品を紹介するうちに、「こんなぬいぐるみがほしかった」「見ているだけで優しい気持ちになる」と言ってくれる人が現れた。

ある日、一通の手紙が届いた。
手紙には、こんなことが書かれていた。

「私は十歳の息子を亡くしました。生前、彼はゾウのぬいぐるみを大事にしていて、それがボロボロになってしまって……。同じようなぬいぐるみを作ってもらえませんか?」

春は震える手で手紙を読み返し、深くうなずいた。
そしてその夜から、亡き少年の思い出に寄り添うように、ぬいぐるみを縫いはじめた。
布の手触り、耳の大きさ、鼻の丸み、目の位置。
ひと針ひと針に願いを込めて。

完成したぬいぐるみは、少し笑っているようにも、少し泣いているようにも見えた。
送り主からは、すぐに手紙が返ってきた。

「箱を開けた瞬間、息子が帰ってきたようでした。本当にありがとうございました」

その手紙を読んだとき、春の目から涙がこぼれた。
自分の作るものが、誰かの痛みに寄り添い、心を温めることができるのだと知った瞬間だった。

春のアトリエには、今もさまざまなぬいぐるみが生まれている。
笑っているうさぎ、考え事をしている猫、勇ましい顔のライオン。
依頼者の話を聞きながら、その人の心にそっと寄り添う形を探す。

そして、部屋の片隅。
モクが今もそっと春を見守っている。
片目はないまま、少し汚れているけれど、その存在は春の原点だった。

「今日も、いい子が生まれたよ」

春がそうつぶやくと、モクは何も言わず、いつものようにそこにいた。

ぬいぐるみとは、不思議な存在だ。
しゃべらないし、動かない。
だけど確かに心があるように感じる。
春にとってそれは、誰よりも正直で、誰よりもあたたかい友達だった。

アトリエには今日も陽が差し込んでいる。
ぬいぐるみたちは静かに並び、次に生まれる仲間の誕生を待っている。
春の針は止まらない。

心を縫うように。
過去を抱きしめるように。
そして、未来へ贈るように。