山深い村に住む老女、佐和子(さわこ)は、春になると毎年のように山へ分け入り、山菜を摘むのが何よりの楽しみだった。
中でもぜんまいは特別だった。
ぜんまいは他の山菜より手間がかかる。
摘むのにも目がいるし、持ち帰ったらすぐに茹でて、揉んで、干してと、根気の要る仕事が続く。
それでも佐和子は、その手間こそがぜんまいの魅力だと信じて疑わなかった。
「丁寧に手をかけてやると、ぜんまいもそれに応えてくれるんだよ」
そう言って、彼女は春の陽に干されたぜんまいをそっと手に取る。
その表情はまるで、子どもをあやす母親のようだった。
そんな佐和子にとって、ぜんまいは季節の挨拶のようなものだった。
雪解けの山に足を踏み入れると、湿った土の匂いと一緒に、あのくるりと丸まった新芽が顔を出す。
それを見ると、「ああ、今年も生きて春を迎えられた」と、胸の奥がじんわりと温かくなる。
ある年の春、村に若い男性が越してきた。
名前は健太(けんた)、東京からの移住者で、IT関係の仕事をしているらしかった。
村人とはあまり話すこともなく、どこか浮いた存在だったが、佐和子はなぜか彼に興味を持った。
ある日、山菜採りに行こうと支度をしていると、健太がふらりと近づいてきた。
「何をしてるんですか?」
「ぜんまいを採りにね。あんたも来るかい?」
健太はしばらく迷ったようだったが、結局ついてきた。
佐和子は彼に山道の歩き方や、ぜんまいの見分け方を一つひとつ教えていった。
「これがぜんまい。似てるけど、こっちは食べられないワラビだよ。間違えちゃだめよ」
健太は最初、興味本位でついてきたにすぎなかったが、佐和子の手仕事に触れるうちに、何かが変わっていった。
摘んだぜんまいを丁寧に茹で、何度も揉み、天日で干す――その一連の作業に、彼は都市生活では味わえなかった「時間の深さ」を感じ始めた。
「すごいですね、こうやって丁寧にやると、味も違うんでしょう?」
「違うとも。ぜんまいは、人の心を映すんだよ」
その言葉が、健太の胸に残った。
春が過ぎ、夏になっても、健太はよく佐和子の家を訪れるようになった。
庭の畑を手伝ったり、漬物作りを教わったり。
やがて村の人々も、彼に心を開き始めた。
数年後、佐和子は静かに息を引き取った。
彼女の家からは、干されたぜんまいがまだ吊るされていた。
遺品の中には、健太に宛てた手紙もあった。
「ぜんまいのように、くるりと巻いてるけど、芯はしっかりしてる。あんたも、そんなふうに生きるんだよ」
健太は、春になると今でも山へ行く。
佐和子に教わった通り、ぜんまいを摘み、丁寧に手をかける。
そして村の人たちと一緒に、それを炊き込みご飯や煮物にして食べる。
「ぜんまいは、人の心を映す」
その言葉を胸に、健太は今日も静かな春の山を歩く。
かつて東京の雑踏で見失った何かを、今、確かにこの村で見つけたのだった。